2009年09月23日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 4.欧州最強牝馬決戦

4.欧州最強牝馬決戦
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本節より新規書き下ろし。

ナチ時代の競馬統括組織OBV

1869年に結成れたホッペガルテン競馬場の運営協会ウニオン・クラブ(Union-Klub)は、長年ドイツ全体の統括団体としての機能も兼ねていた。だが分権性の根強いドイツでこの状況は、他地域の競馬協会にとっては不満のタネであり、第一次大戦後間もない1920年、各協会同権の上位組織としての「サラブレッド生産及び競馬のための最高機関」(Oberste Behörde für Vollblutzucht und Rennen・OBV)が設置される。即ちヴァイマール期のOBVは規則や血統管理の上で統括的役割を果たしていたが、組織としては議会民主主義的形態を採っていた。だが1933年にナチ政権誕生後、OBVはプロイセン内務相ゲーリンクが指揮する馬産とスポーツ振興政策の下に組み入れられ、中央集権化される。もっとも、直接の管轄省庁はプロイセン農務省になり、指導部トップにはナチ党員が入り込んだものの、実質運営にはヴァイマール時代からの馬産関係者や農務官僚が残っていた。当時反ナチとして左翼グループは徹底的な弾圧を受けていたが、軍部や教会ら伝統的な保守陣営はナチとの折り合いを付けながらも一線を画し、その強い影響力ゆえに完全なるナチ化を逃れていた。この点、ドイツ史研究の上で殆ど注目されていないものの、大土地所有者や大手資本家層が主要メンバーを占めていた競馬サークルも、ナチイデオロギーの浸透が少ないグループの一つであった。所謂フランスからの馬略奪に関してもOBVの運営部は距離を置き、従来の関係に基づいたフランス馬産界との関係を維持できたのも、このサークルにおけるナチの影響力の弱さを示しているといえるだろう。OBVは1947年に「サラブレッド生産及び競馬のための管理委員会」(Direktorium für Vollblutzucht und Rennen e.V.・DVR)が設立されるまで機能を維持し、サラブレッドに関する様々な戦後処理にも権限を持って対応した。

ヒトラーと競馬

ヒトラー自身が競馬に係わっていたか否かについては興味が持たれるところである。ナチ上級幹部では上記のとおりゲーリンクが直接競馬に影響力を持つ地位にあり、ネレイーデのダービーに臨席していた他にも、幾度となく競馬場を訪れていた写真等の記録が少なからず残されている。また宣伝相ゲッベルスの写真も複数あり、彼らは結構好んで競馬場に来ていた様子だ。またナチではないが、ヴァイマール時代から大統領ヒンデンブルクも頻繁にホッペガルテンに足を運んでおり、副首相パーペン(彼も非ナチの保守政治家)は自らがアマチュア騎手であったため、競馬場常連の顔であった。このように党や国の要人たちが頻繁に姿を見せていることから考えるならば、ヒトラー自身も競馬に関心があれば、或いはプロパガンダのためであれ、ダービーや帝国大賞の際、競馬場に現れていてもよいはずである。というより、競馬のステイタスを考えれば、一度も姿を現さない方が不自然だ。しかし1933年から休刊になる1940年までの「ドイツ競馬アルバム年鑑」を見た限り、彼が競馬場に訪れた形跡はない。1936年度版と39-40年度合併号に一応ヒトラーが写っている写真が掲載されているのだが、前者は目次直後の一面写真でありながら、被写体の彼は何かを視察しているような横顔で写っているだけで、競馬場と特定できる背景がない。実際に訪れていたなら、それと分かるように載せるだろう。また後者は、軍馬生産に関する記事の中で騎馬隊行進式に写っているものや、軍用牧場か厩舎で重種馬にえさを与えているようなシーンで、やはり競馬やサラブレッド生産に直結するものではない。いくら競馬界がナチ政権と一線を画していたとはいえ、総統閣下が競馬場を訪れておきながら写真を載せない、また記事にもしないということはあり得ない。つまりヒトラー自身は競馬への関心は特になく、直接的影響力も揮っていなかったと考えるのが妥当だろう。

クリスティアン・ヴェーバー(Christian Weber)

彼は1883年バイエルンの小村に生まれ、ドイツ語ウィキペディアによると、国民学校(小学校)を出たあと農場の牧童をしていたことで馬に触れるようになる。兵役や第一次大戦への従軍を経た後、ミュンヘンで馬貸しやガソリンスタンド経営、またジーメン著『ハンブルク競馬場150年史』によれば、酒場の従業員や犬の美容サロン、自転車修理工等もやっていたようで、基本的に不安定身分の低所得層に属す人物であったといえる。1920年にヒトラーと出会いナチに入党、彼のボディーガードとして"Du"(お前)で呼び合う関係であったことは本編でも触れたとおりだ。しかしレームのように粛清されることなく終戦まで党内に残っていた割に、政治的側面で彼の名が表立たないのは、手にした地位と権力を専ら趣味の競馬に注いでいたからであろう。ブラウネス・バント創設はヴェーバーの存在なしにはありえなかった。フランスからの略奪に関しては、それが非公式であるが故に、その実態を示す資料の発見が難しい。しかし戦後の文献を読む限り、ヴェーバーの関与は既定となっている。1936年にヴェーバーがミュンヘン市から金を引き出して開設したイザーラント牧場に関し、1942年に早々と書かれた博士論文(獣医学)があるが、それに掲載されている牧場繁殖馬が不自然なほどフランス産馬で固められていることからも(もちろん略奪とは書いていない)、ヴェーバーの関与はある程度傍証できるだろう。恐らくイザーラント牧場やファリスが繁養されていたアルテフェルト牧場のアーカイヴを調べれば色々と実態が分かるのだと思う。だが残念ながら、これまで馬略奪に関し本格的に取り組んだ研究は(恐らく)ない。

尚、ナチに関してはどうしても否定的解釈になってしまう面が否めず、戦後の文献でもヴェーバーは専ら教養のない小悪のイメージになりがちだ。実際彼が私利私欲のために権力を濫用していた面は否定できないであろう。だが彼の人物像から逆に想像できるのは、日本の競馬場でも普通によくいる競馬オヤジのような姿である。偶々早い段階でまだゴロツキ集団のようだったナチ党の仲間になり、指導部に入る力も、ヒトラーを脅かすような器もなく、ただ古参という立場だけで自身の能力以上にはわがままの利く権力を得てしまったがために、羽目を外してしまったオッサン、そんなイメージだ。しかしそんなオヤジのわがままが、ネレイーデとコリーダの勝負をお膳立てしたことは確かであり、ナチ時代の競馬を盛り上げた要因の一つになったことは、(負の側面を無視することなく)評価しておく必要はあるだろう。

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2009年09月10日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 3.空前の電撃ダービー

3.空前の電撃ダービー
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本節は旧ブログ「Nereide(3)」の後半、主にドイツ・ダービーについての書き直しと、ダービー自体の歴史的位置づけについて加筆。その加筆部分との関連から、このはしがきではドイツ競馬の黎明期とウニオン・レネンについて、もう少し歴史的に掘り下げてみたい。

1822年の「ドイツ」

「ドイツ競馬発祥の年」とされる1822年に「ドイツ」と称する国家領域はなかった。確かにナポレオンからの解放戦争後、1815年ウィーン会議によって「ドイツ連邦」という組織体は生まれているが、これは計39の独立主権国家及び自由都市からなる連合体で、現在のEUと同じかそれ以上に緩い紐帯に過ぎない。しかもその領域は旧神聖ローマ帝国の領域に属す部分に限定されていたため、連邦の2大強国オーストリアとプロイセンについては、それぞれ自国の半分、乃至それ以上が連邦に属していない。一方連邦内国家の君主も兼ねるデンマーク、オランダ国王、及びハノーファーと同君連合のイギリス国王が加盟しているなど、ドイツ連邦はおよそ国民国家の基盤として看做せる集合体ではなかった。但し一方で解放戦争を通じ、上級貴族の帝国臣民意識だけでなく、非貴族における「ドイツ国民(ネイション)」としてのナショナル・アイデンティティが明確に生まれ始めたのもこの時期である。即ちドイツ競馬黎明期における「ドイツ」とは、制度上は実質支配力を持たない地名に過ぎないが、枠組みが曖昧ながらも人々の心に帰属意識を与え始めた概念だったといえる。以下の話においても、「ドイツ」という語が暗黙の前提のように使われながら(それは19世紀始の原典著者においても同様である)、その想定範囲や実際の活動領域が様々なレベルで伸縮していることを念頭に置いておいてもらいたい。

ゴットリープ・フォン・ビール(Gottlieb von Biel)と最初の競馬開催

ビールは、1822年バート・ドーベランでの最初のサラブレッド競馬を主催した人物である。1792年生。ドイツにおける競馬はこの人物個人の情熱によって始まったと言っても過言ではない。ビール家は父の代に男爵の称号を得た新興貴族で、後にゴットリープが牧場を開くメクレンブルクの土地も、父の代に得たものでる。彼は1813~14年の解放戦争に従軍し、英国軍との混成部隊に所属。ここで係わった英国馬の優秀さに心酔し、戦後早速サラブレッド牧場を開業することになる。メクレンブルク大公国は、元々馬産地として有名で、メクレンブルク馬はその優秀さが好まれドイツ各地へ輸出されていた。しかし18世紀後半になると、プロイセン、ハノーファー等近隣国の馬産レベルが向上して輸出が頭打ちになり、それと同時に農業技術の進歩で穀物生産量が増大、英国への輸出をメインに国内財政が潤い始めたため、牧場地は減らされ農地化が進められた。またメクレンブルク馬はナポレオン統治時代に多く戦場へ駆り出されたため、更にその数は減少し、解放戦争後には既にかつての活況は失われていた。だが1815年、英国が自国内で向上してきた農業生産力を保護するため、関税引き上げによる輸入制限を施行。そのためメクレンブルク経済は突如窮地に立たされたのである。ビールのサラブレッド牧場開業はまさにこのタイミングであった。もちろんサラブレッド生産がいきなり経済危機を救えたわけではないが、馬産地としての誇りをメクレンブルク国民に再起させる効果は十分にあった。ビール自身がその優秀さを積極的に説いて回ったこともあり、英国サラブレッドは追い風に乗るように導入され、国内に多くの「英国マニア」を生み出した。メクレンブルクが穀物貿易によって、英国との通商関係を既に築いていた意味も大きいだろう。このような帰結として、ドイツ地域で最初の競馬がメクレンブルクで開催されたのは必然であった。またその機運が高まった1822年、大公国皇太子パウル・フリードリヒがプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘アレクサンドリーネと結婚し、バルト海沿いのリゾート地ハイリゲンダムを競馬開催直前に訪問したことも幸運となった。開催地バート・ドーベランはそのハイリゲンダムの隣に位置する。ビールはこの機にPRマネージャーとして多くの賛同者を集め、何よりこの皇太子夫妻を支援者として得たことにより、この競馬開催を最初から権威ある行事へと高めることに成功した。特に皇太子妃アレクサンドリーネが競馬愛好者となったことで、バート・ドーベラン競馬の確立と同時に、プロイセンへの競馬拡大にも一気に拍車をかけたのである。

トラケーネン牧場長ブルクスドルフのサラブレッド批判と論争

このようなサラブレッド生産と競馬の広がりに対し1827年、プロイセン王立トラケーネン牧場長ブルクスドルフ(Wilhelm von Burgsdorf)が批判論文を発表した(因みにトラケーネン牧場はプロイセン東端に位置し、ドイツ連邦の範囲外。現在はロシア領である。)。初の競馬開催から僅か5年後である。如何に急速にサラブレッド人気が高まっていたか、この一件からも窺い知れるだろう。しかも王立トラケーネン牧場の場長とはこの時代、軍事強国プロイセンの補給基地最高責任者と言ってもよい人物だ。当時の馬産とは軍馬の質に係る重要テーマであり、競馬もまた単なる娯楽の枠に収まる話ではなかったのだ。彼の論旨は、遊びとしての競走によって選別されたサラブレッドは、軍馬、馬車馬等の使役に耐える馬作りには適さず、馬の良化に資する価値はない、それゆえサラブレッド生産の拡大はドイツの馬産にとってマイナスである、というものである。これに対し真っ向から反論したのがビールだった。彼は1830年、『貴種馬についての緒言』"Einiges über edle Pferde"と題した358ページに渡る反論書を出版、英国ではサラブレッドが他の使役種の改良にどれだけ効果を現しているかを示し、ブルクスドルフの批判に一つ一つ反駁した。またこれを機に他のサラブレッド生産者も交じって、1830年代を通じ激しい論争が展開されている。その詳細については私自身が原典未読のため紹介できないが、最終的にブルクスドルフ自らトラケナー種の改良にサラブレッド種牡馬を導入したことで、ビール側の勝利として決着がつく。但しビール自身は病を患う中で大著を執筆した影響もあったのか、その決着を見ぬまま、出版翌年の1831年に若くして人生を閉じている。しかし彼の意思は兄ヴィルヘルム(Wilhelm von Biel)によって引き継がれた。英国人の妻を持つヴィルヘルムは、特にタタザールからのサラブレッド購入においてエージェント的役割を演じて多くの馬を大陸に輸入し、ドイツ地域のサラブレッド生産拡大に貢献している。

ウニオン・レネン(Union-Rennen)の創設

上記論争が展開されながらも、サラブレッド競馬の拡大にブレーキがかかっていたわけではない。ブルクスドルフが批判する傍らで、1828年にはベルリンで競馬協会が創設され、その翌年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自ら名誉総裁に就いている。生産地域もドイツ地域内各国に拡大し、特にプロイセン領シュレージエン(現ポーランド領)は19世紀のサラブレッド馬産をリードすることになる。またハプスブルク帝国ハンガリーでも1826年に最初の公式サラブレッド競馬が開催されている(尤も開催地は現スロヴァキア首都ブラチスラヴァ)。ハンガリー内最初のサラブレッド生産牧場も1825年に創設されており、1830年には大陸生産サラブレッドが各地揃い始めていた。そこで創案されたのが、3歳馬限定の能力検定競走、ウニオン・レネンである。この創案者もまたビール(ゴットリープ、ヴィルヘルム兄弟連署)である。レース登録告知書のタイトルは「ハンガリー、オーストリア、プロイセン、メクレンブルク、ホルシュタイン、及び大陸のためのウニオン・レネン」であり、出走資格は「1831年に大陸で生産された馬」となっている。一言で置き換えるなら「英国以外の生産馬」ということになる。ウニオン・レネンは「ドイツ最初のクラシックレース」と呼ばれるべきレースであるが、この告知文全文を通しても「ドイツ」という文字は一つもない。「ネレイーデ物語」本編でも触れているが、ウニオン・レネンが何故「ダービー」と名付けられなかったかというのは、英国に「ダービー」が存在するのに対し、「大陸ダービー」とでも呼ばない限りレース実態に妥当する表現がなかったからであり、何より大陸各国を総称できるウニオン(同盟・連合)こそが相応しいと考えられたからであろう。1834年に最初の歴史を刻んだウニオン・レネンは、19世紀半ばまでドイツ地域各国の優秀な3歳馬が集う重要なレースとなった。しかし本編でも触れた通り、1867年オーストリア・ダービー、1869年北ドイツ・ダービーの創設、1871年プロイセン中心のドイツ統一とオーストリア分離により大ドイツ的基盤が失われ、ウニオンの地位はこの新設2レースとの間で相対化されてしまった。それでも20世紀に入るまでは同等の地位が維持され、北ドイツ・ダービー(1889年よりドイツ・ダービー)が創設4年目にオーストリア・ハンガリー生産馬にも開放してからは、ウニオン→オーストリア→ドイツを短期間で挑戦する米国三冠のような様相を見せていた。だが20世紀に入った頃からドイツ・ダービーの地位がより高まり、また第一次大戦敗北後のハプスブルク帝国崩壊により馬産地ハンガリーを失ったオーストリア・ダービーが一気に衰退したことによって、ウニオン・レネンはドイツ・ダービーのトライアルレースと化していったのである。尤もウニオンの持つ伝統は決して否定されるものではなく、実態はダービー・トライアルとなっても、勝者に対するリスペクトは現在も失われていないということは付け加えておきたい。

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2009年09月07日

やっと正しい選択デフリース ─ バーデン大賞

競馬脳がすっかり70年以上前に飛んでるところで、本日ばかりは現代に引き戻しておかないとということで、バーデン大賞。

9月6日バーデンバーデン

バーデン大賞(G1)


ファロン騎乗のYoumzainとデットーリ騎乗のEastern Anthemという何とも豪華な遠征組に対し、ドイツ側も新旧ダービー馬と古馬G1ホースで迎え撃つという、少頭数ながらも実に見応えあるメンバーが揃った伝統の一戦(ダービー2着馬Sordinoは当日出走取消)。レースは今年のダービー馬Wiener Walzerが淀みないペースで引っ張り、その直後に前年ダービー馬Kamsin。その後ろをGetaway、Youmzain、Adelar、Eastern Anthemが1列に連なる展開。3、4コーナーで各馬仕掛けにかかり、直線に入ると皆馬場の良い外へと雪崩れ込むと、他馬の騎手たちが懸命に鞭を振るう中、デフリースだけが静かに手綱を持ったままGetawayが先頭に躍り出、そこから鞭を入れると外埒へ向かって斜行しながらも一気に後続を引き離して勝利。

3馬身差の2着に来たEastern Anthemは本場場入場で、画質の悪いネット中継でも伝わってくる漲るような好気配を見せており、やはりラインラントポカールよりは伸びてきたのだけど、Getawayの充実度には敵わなかった。Youmzainは太めに見えたけど、しっかり3着に入っている辺りこの馬らしい。Wiener Walzerは結局いいペースメーカー役になってしまった感じだが、それでも差のない4着に粘っているのだから大したものだ。

Getawayの鞍上デフリースは、今年からシュレンダーハーン/ウルマン陣営の主戦騎手に抜擢されながら、肝心なときに結果を出せず、かなり苦しい立場にあった。特に陣営の馬が絶好調の活躍をしているにも拘らず、ダービーでは迷った末に選んだSuestadoが外れだったり、カタールのアラブ競馬との契約でドイツ賞(G1)でのGetawayに乗れなかったりと、悉くついていなかった。それゆえ今回、ポカールで接戦の末Getawayを破ったWiener Walzerではなく、改めて前者を選んだのは、彼なりの意地と拘りだったと思う。それが漸く正しい選択として結果となり、レース後スタンド前に戻ってきたときは、かつてないほどに喜びを爆発させていた。しかも実況のチャップマンが彼の事情を汲んで、取り分け彼の勝利を祝福していたので、彼の喜ぶ光景が益々輝かしく見えた。

オランダでリーディングを重ね、主戦場をドイツに移して9年目のイケメン、ナイスミドルな40歳。心からおめでとう!
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2009年09月04日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 2. 苦戦の連勝街道

2. 苦戦の連勝街道
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本節は旧ブログ「Nereide(3)」の前半、ドイツ・ダービー前までの書き直し。本節に関する補足は特別ないので、登場する騎手たちについて少し紹介しよう。

エルンスト・フローリアン・グラプシュ(Ernst Florian Grabsch)

ネレイーデの全レースで手綱を握った主戦騎手。1929年にグラーフイゾラーニでダービー初制覇し、オッペンハイマー時代よりエーレンホフとは縁が深い。だがグラディッツ牧場のアルヒミスト(Alchimist・1933年)、アーベントフリーデン(Abendfrieden・1937年)でも勝っており、シュレンダーハーン主戦の時期もあるため、常にエーレンホフ専属だったわけではない。1905年生まれで、若くから頭角を現し、1929〜1931年に3年連続でリーディングジョッキーに輝いている。直感的な手綱捌きで、天才肌の騎手であったとされる。彼は騎乗スタイルの大胆さで華があっただけでなく、プライベートにおいても派手な生活で有名であった。ベルリンの屋敷では執事を従え、贅沢なパーティをよく催していたようだ。しかしその贅沢な生活を支えるために、常に多額の借金を抱えていたとも伝えられる。また彼はナチが政権を取った1933年に党員となり、親衛隊にも所属していた。同年のダービーをアルヒミストで制した時は、レース後に親衛隊の制服を勝負服の上に羽織り、党員に肩車されて観客の前に現れ、ゲッベルス宣伝相の祝福を受けるなど、ナチの宣伝的演出にも一役買っている。もっとも、この後もシュレンダーハーンの馬に乗るなど、特に反ユダヤ主義的な政治性はないようで、単に時流に乗った派手好きな人間であったようだ。しかし戦後は人々から見放されたらしく、再び手綱を握ることがないまま、1963年に首を吊って自ら命を絶った。

ユリウス・ラステンベルガー(Julius Rastenberger)

ネレイーデのライバルとしては、主にヴァーンフリートに騎乗していた騎手。キサッソニー・レネンでウンフェアザークトの2着でも手綱を握っており、このネレイーデのストーリーに出てくる限りでは、後方からの追い込みが得意な豪腕騎手のイメージが強い。しかし彼について語られた記事をいくつか読むと、むしろペースメイキングが上手くて柔軟性のある、柔らかい騎乗スタイルの騎手だったようだ。ファンも多く、「このレースはユーレ "Jule"(彼のニックネーム)でしか勝てなかった。」とよく言われたほどで、実際に外国人騎手が主流だったそれまでのドイツ競馬界で、1915年に初めてドイツ人としてリーディングを獲得している(アメリカ人騎手アーチバルド "Archibald" と同勝ち星で分け合う)。しかし1924年、勝利を怠った騎乗をしたことで、騎手免許を剥奪され、一旦事実上の引退に追い込まれる。経済的にも苦境に陥ったラステンベルガーは、なんと「猿回し」ならぬ「熊回し」師をやったり、スポーツバーを開いたりして糊口をしのいだ。1929年に漸く免許剥奪が取り消され、短期で再びトップジョッキーの地位に返り咲く。1887年生まれの彼は、50歳を過ぎても第一線で活躍していたが、1943年7月3日、ホッペガルテンのレースで1149勝目を楽に手に入れるかに見えたその時、馬上の彼の動きが止まり、追い込んだ馬に交わされ2着で入線すると、ばさりと地面に落ちた。突然の心不全により、ラステンベルガーは「馬上で死んだ騎手」として56歳の生涯を閉じたのである。

オットー・シュミット(Otto Schmidt)

戦前、戦後を通じ、2218勝という当時としては破格の成績を残した伝説的ジョッキーで、ネレイーデさえいなければ世代トップの牝馬になれたアレクサンドラの主戦騎手。ヴァルトフリート牧場の見習い騎手としてデビュー(記録上は1912年と書かれているが、それは牧場に見習いとして雇われた年で、修業の後実際にデビューしたのは1915年)し、翌1916年のダービーを人気薄の牧場2番手馬アモリーノ(Amorino)で勝利し、一躍脚光を浴びる。そこから一気に才能を開花させ、1919年には早くもリーディングジョッキーとなり、1924年にドイツ人騎手として初の年間100勝以上(143勝)、1927年に同じくドイツ人として初の通算1000勝を達成した。1952年に引退するまでにダービーを7勝、リーディングに14回輝いている。彼が本馬場に現れると観客が「オットー!オットー!」と叫ぶのは、当時の競馬場のお決まりの景色であった。逃げが得意で、自らペースを作って勝利するパターンが多かったそうだ。私生活も上記二人のようなスキャンダルとは無縁で、むしろ生真面目過ぎるほどであったらしく、多くの騎手がレース後酒場に集まっていたのに対し、彼はさっさと帰宅して、朝調教の騎乗も決して欠かさなかったという。騎手引退後一旦調教師になるが、間もなく病を患いリタイア。1964年、68歳で他界した。

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2009年08月27日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 1. 鮮烈のデビュー

1. 鮮烈のデビュー
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本節は旧ブログ「Nereide(2)」の書き直し。

レース展開詳細に関する参考文献

旧ブログの時は1936年度「ドイツ競馬アルバム年鑑」(Album des deutschen Rennsports)のネレイーデ特集から引用したが、その後ナチ時代のレーシングカレンダー(Deutsche Jahres-(Galopp) Chronik)を買い集めたお蔭で、公式記録としてのレース展開を確認できるようになった。ただ、ネレイーデ特集の方がその文章の性格上、ドラマチックに活き活きとレースや競馬場の様子を描写しているので、本稿では公式記録をベースとしつつ、ネレイーデ特集で補完するような形で書いた。

ホッペガルテン2歳三冠レース

・ズィーアシュトルプフ・レネン(Sierstorpff-Rennen, 1000m)
・オッペンハイム・レネン(Oppenheim-Rennen, 1200m)
・ヘルツォーク・フォン・ラティボア・レネン(Herzog von Ratibor-Rennen, 1400m)

この表現は1936年ネレイーデ特集にあったもので、当時はこの三冠にある程度の高い格があったようだ。伝統面ではバーデンのツークンフツ・レネン(Zukunfts-Rennen, 1200m)も別格の地位にあったため、ネレイーデはこれら全てを押さえたことになる。現在2歳チャンピオン決定戦とされているヴィンターファヴォリート賞(Preis der Winterfavoriten, 1600m)も、一応当時からそれなりに有力馬を集めていたが、如何せん開催地がケルンであったため、ホッペガルテン中心だったこの時代は上述のレースほど重視されておらず、現在の地位を確立したのは戦後に競馬の中心がケルンへ移ってからになる。尚、ホッペガルテン2歳三冠は、それぞれ開催地を変えて現在も残っているが、「三冠」という括りでは最早扱われていない。ズィーアシュトルプフ・レネンについては、1986年にハンブルガー・クリテリウム(Hamburger Criterium)と統一され、現在は両レースの伝統を引き継ぐ形で残っている。

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2009年08月24日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 プロローグ エーレンホフ牧場の光と影

プロローグ エーレンホフ牧場の光と影
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本節は旧ブログ「Nereide(1)」の書き直し。

1924年バーデンショック

これを話の枕としたのは別に私のオリジナルではなく、1936年度「ドイツ競馬アルバム年鑑」(Album des deutschen Rennsports)のネレイーデ特集を踏襲したものだ。もちろんこれがエーレンホフ牧場発展の重要な布石となり、導入部として最も妥当だと判断したからでもある。またシュテルンフェルトの『パティエンスからネレイーデまで』でも、この事件とその後の影響は重要性をもって書かれている。両記事にははっきり親和性があり、前者は署名記事ではないのだが、もしかしたらシュテルンフェルトが書いたのではないかと考えている。「ドイツ競馬アルバム年鑑」の長文特集記事は1920年代から1931年度版まで執筆者名が記載されており、シュテルンフェルトとペンネーム「マルドゥク」(Marduck)という記者の二人でほぼ書かれていた。主にシュテルンフェルトが牧場記事、マルドゥクがその年を代表する馬について書いていたので、1936年度版でもそれが踏襲されていればネレイーデの記事の筆者は後者となるのだろう。しかし仮にそうだとしても、共に「ドイツ競馬アルバム年鑑」を作ってきた者として共通認識は出来上がっていただろう。バーデンショックがドイツ馬産界に与えた影響という観点がネレイーデ誕生に不可欠な要素と見ているところに、シュテルンフェルトが『パティエンスからネレイーデまで』を執筆した動機の背景が隠れているとも考えている。

グスタフ・ラウ

シュテルンフェルトと共にエーレンホフ牧場の顧問であったラウについては、実はそれほど詳しく調べていないのだが、ドイツのウィキペディアによれば、一時期はSport-Weltの編集者の一人であったようだ。しかし彼の名声はサラブレッドよりむしろ温血種の専門家としてあったようで、ドイツ軍騎兵部隊の軍馬生産補給の指揮に当たったり、1936年ベルリン・オリンピックの馬術競技運営組織にも携わっている。戦後も乗馬スポーツの振興に係わっており、シュテルンフェルトに比べ、各体制の中で、飽くまで必要とされる場においてのみ影響力と名声を持つ専門家としての地位を維持していた人物であったのだろう。ネレイーデの活躍時はオリンピックに従事している頃であり、恐らくエーレンホフ牧場や競馬関係とは接点がなかったと推測される。

オッペンハイマーの最期について

基本的に何も分からないというのがあるのだろうが、戦後の「ドイツ競馬アルバム年鑑」や季刊誌「Vollblut」のエーレンホフ牧場に関する記事でも、詳しい話は敢えて避けるかのように載っていない。本稿の記述において参考にしたのはハラルド・ジーメン著『ハンブルク競馬協会150年史』で、この本は2001年までの全ダービーについて書かれており、オッペンハイマーに関しては1929年グラーフイゾラーニの章でその人物像が語られている(牧場で馬に角砂糖を振舞っていた逸話もここより引用)。この本で「彼(オッペンハイマー)の運命は分からないままである。」と記されているため、本稿でもそれを採用したのだが、実は先月(2009年7月)に出版されたシュレンダーハーン牧場史では彼の最期についても書かれていた。オッペンハイマーはユダヤ人迫害が更に本格化した1942年、睡眠薬で自殺したということである。この本では基本的に文献参照箇所が註に記されているのだが、この件についてはそれがなく、本文中ではオッペンハイム家がその報を伝え聞いたと書かれているため、恐らく情報源はカリン・フォン・ウルマン女史へのインタビューと思われる。ただその真偽については確かめる術もないため、本稿ではジーメンの記述に従い「不明」とし、罪人として拘置下にあったことから、ナチによる抹殺の可能性も残しておくことにする。

ハインリヒ・テュッセン・ボルネミシャ

旧ブログで、「軍需産業を支える鉄鋼企業は戦後ナチ時代の責任を深く問われる立場にあったが、反面その巨大な影響力ゆえにナチ党も容易に干渉することができず、彼らの暗黙の後ろ盾で反ナチ抵抗の地下活動を行っていた者もいたくらいだ。」と書いた。これは全く根拠なく書いたものではなく、具体的には戦後西ドイツ第3代連邦大統領グスタフ・W・ハイネマンなどは、ライン製鉄所の法律顧問をやっている傍ら、告白教会の反ナチ的立場を通し、地下新聞などを発行しながらも、終戦まで拘束されることなく自身の地位を維持している。もちろんハイネマン自身がうまくやっていた側面はあるが、しかし状況証拠的には十分に目を付けられる人物であったにも拘らず、ナチが最後まで手出ししなかったのは、鉄鋼業界に深く繋がった彼のバックボーンにあったといえる。ただテュッセンに関しては、以前は知識不足で、彼がゲーリンクらナチ幹部と競馬場で親しく接している写真が多く残されていることから少し調べてみたら、かなり親ナチ的人物だということが分かった。それゆえ旧ブログでの記述は、本稿では削除した。

アードリアン・フォン・ボルケ調教師

彼についても旧ブログ執筆の際は知識不足で、てっきり元々エーレンホフの専属調教師をやっていた立場からテュッセンに牧場の救済を頼んだと解釈していたのだが、実はこれを機にこのポジションに就いている。それゆえ旧ブログの記述は誤り。尚、旧ブログでボルケがネレイーデの見栄えのしない体躯を見て「まるで骨組みのようだ」と言っていたと書いているが、これはジーメンの本から引用したもので、ドイツ語では"eher ein Gerüst"とある。建築現場の足場の骨組みみたいな意味になるのだが、4年前も結構悩んで結局馬体を指して言うには上手い訳語が出てこないので、今回はこの表現自体削除した次第。

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2009年08月23日

ネレイーデ物語 〜 はじめに

ネレイーデ物語〜Geschichte einer Wunderstute - Nereide〜

旧ブログ、しかも2005年11月を最後に未完のまま放置していたドイツの名牝ネレイーデ(Nereide)のストーリーを、全面的に書き直して再スタートします。既に校了しておりますので、今度は中断しません。ご安心くださいませ。全部で約2万字、(古い人間なので換算しないと自分の中でイメージつけられないのですが…)大体原稿用紙50枚程度になってしまったので、連載形式で各節数日置きにアップしていきます。

本編を始める前にまず4年前の言い訳をしますと、ダービーまでは手元のドイツ語資料を読んでそのまま勢いで書けたのですが、ブラウネス・バントのフランス馬コリーダとの対決になって、そもそもコリーダのことをきちんと調べてなかったせいで一旦頓挫しちゃったのです。で、手元のドイツ語ではイマイチ情報が足りなかったし、フランス語は読めないし、日本語、英語でもこの馬の全体像が見えてくるものがすぐに見つからなかったので、するすると執筆意欲が萎んで放置プレイとなってしまいました。その後半年に1度くらいむくっと「書かねば!」という気持ちがもたげるのですが、それまで勢いで書いた部分にも間違いや誤解を招きかねない点、表現が気に入らないところなどが出てきて、また最初から調べ直したりしてると、また色々気になりだして頓挫というのを繰り返し、なんとまあ4年も経ってしまったわけです。嗚呼…orz

ただ今回蔵出しする文章については既に3ヶ月ほど前に仕上がってたし、これだけの内容だったら多分もっと前にも書き上げることは出来ていたと思います。前回エントリーでちらりと触れましたが、実はもう一つまとめておきたい話があって、それと合わせて完成という思いだったので、それが書けなかったのがこれまで引きずってしまった一番の理由になります。当初「エピローグ」として、途中から「補論」として書いては消してを何度か試行し、結局一旦諦めたテーマについて、ここで本編を始める前に一応触れておこうと思います。それによって、単なる名馬列伝という視点を相対化し、ドイツ競馬という観点をも一旦リセットしてもらいたいからです。

そのテーマとは、この物語の種本の一つなる『パティエンスからネレイーデまで〜ドイツのサラブレッド生産30年の興隆〜』"Von Patience zu Nereide - Drei Jahrzehnte des Aufstieges der deutschen Vollblutzucht"(1937年)の著者リヒャルト・シュテルンフェルトが、何故ネレイーデを機にこの本(初出はSport-Welt紙上の連載)を執筆したのか、ということです。これだけだと、この人物を知らない人にはどうでもよく思えるかもしれませんが、しかしこの著書がネレイーデの名声を確固たるものにすることへ一役買ったことは確かであり、またそれ以上にドイツ競馬の発展史を長期的視野で見ていくための一つの軸を作った点でも重要な一書になります。この続編となる書も、1963年、2003年に世代を超えるスパンで出版されています。

しかし私の関心は、この書が後に与えた影響よりも、まずは飽くまでこの人物自身が何故この書をこのとき書いたのか、或いは書かずにはいられなかったのかということです。「書かずにはいられなかった」とは些か主観的解釈になりますが、しかしその捉え方は多分間違いではないでしょう。最初にこの書を読んだときから、文章にある種のパッションを感じていました。そして戦後ハラルド・ルドルフィによる続編『アーベントフリーデンからバーリムまで』"Von Abendfrieden zu Baalim"(1963年)の冒頭に書かれたシュテルンフェルトに関する短い逸話を読んだとき、私にとってこの人物への関心が拭い難いものとなりました。長年Sport-Welt紙上他においてドイツ競馬ジャーナリズムの一線にいたシュテルンフェルトは、ルドルフィによると、この書を最後に筆を置き、そして戦時中ナチの犠牲者となってその人生を閉じたとされているのです。如何なる理由でナチの犠牲になったのかは書かれていません。戦後の出版物もかなり目を通しましたが、残念ながら彼の人物像と死の原因を語るものは見つけられませんでした。彼個人について分かっていることは、博士号を持つ馬学者であったこと、そして本編でも触れるとおり、ネレイーデを産んだエーレンホフ牧場の創設者モーリッツ・I・オッペンハイマーの顧問(Berater)を務めていたということです。オッペンハイマーはユダヤ人で、ネレイーデの活躍を見ることなくナチによりこの世から消されます。即ちシュテルンフェルトの書は、実はオッペンハイマーに奉げる哀悼の意も込められていたのではないかと思うのです。そして彼自身も何かの理由でナチの目につけられ、或いはナチに従うことを拒み、命を奪われたわけです。

ただ一方で、彼はドイツのサラブレッド生産という視点に拘っていました。

ドイツの生産者が自らの課題の大いなる道筋をその目から見失わない限り、全てのことは決定的な意味を持つものではない。これまでなかった何か、今日我々の魂の目の前にある何かを成すこと、それに値することとは、ドイツのサラブレッドである。(強調原文より)

拙訳で恐縮ですが、これは『パティエンスからネレイーデまで』の最後に書かれている言葉です。この書は一貫してドイツ内国産の発展史を各年毎に論じたものであり、ネレイーデを一つの到達点として描いているのですが、しかし当然これが終わりではなく、更なる発展を追及するためにドイツのサラブレッド生産という視点を強く持ち続けていかなければいけないということを強調しているわけです(そもそもネレイーデは母がイタリアからの輸入馬で、およそ純ドイツ血統といえる馬ではない)。彼の最初の理論書と思われる『ドイツのサラブレッド生産』"Deutsche Vollblutzucht"(1917年)という論文にも目を通しました。このときから彼の競馬に対する姿勢は一貫しています。シュテルンフェルトは紛れもなくドイツに対する強いアイデンティティを持ったナショナリストでした。

そこで大きな課題が持ち上がります。即ち、そもそも「ドイツ」とは何かということです。私は曲がりながらもかつてドイツ史を専門として勉強していた者ですから、このテーマにはドイツ競馬に取り組む以前から一応少なからず係わってきました。「ドイツ」とは何かを理解していくには、まず今頭の中にある「ドイツ」の既成概念やイメージを解体する必要があります。上で「ドイツ競馬という観点をも一旦リセットしてもらいたい」と書いたのはそういうことです。少なくともドイツ近代競馬発祥年とされる1822年には「ドイツ」という国は存在しなかったことくらいは、基本知識として押さえておく必要があるでしょう。ただこの課題に正面から取り組むと、最早「ドイツの競馬史」ではなく、「競馬を通じたドイツ史」を書かざるえなくなってきます。これはもうサイトのコンテンツレベルでは収まりません。

更にこの課題の一つの軸として、「ドイツ地域におけるユダヤ人」というのも外せなくなります。エーレンホフ創始者のオッペンハイマーのみならず、シュレンダーハーン牧場オーナーのオッペンハイム家、名繁殖牝馬フェスタ(Festa)によってドイツ馬産に多大な影響を与えたヴァルトフリート牧場の創設者ヴァインベルク兄弟も、キリスト教への改宗者とはいえ元はユダヤ家系に属します。現代に残るドイツ血統の礎はユダヤ系の馬産家によって築かれたと言っても過言ではありません。そして、ドイツのサラブレッド生産という観点で内国産馬の向上に尽力したという意味では、彼らもまたシュテルンフェルトと同じなのです。実は先月、約500ページに渡るシュレンダーハーン牧場史が出版され、早速ドイツのAmazonで取り寄せ気になる箇所を読んでみたのです。私はこれまで、オッペンハイム家はナチ時代末期に亡命していたと思っていたのですが、それは勘違いで、先頃亡くなったカリンさんら家族は、実は『アンネの日記』同様、ケルンの知人宅の屋根裏に終戦まで1年余り息を潜めて隠れていたのだと知りました。またヴァインベルク兄弟の兄アーターは、ナチに捕えられ強制収容所で死んでいます(殺される前に衰弱死)。しかし彼らがユダヤ人としてナチの迫害を受けたことと、ドイツのサラブレッド生産を通じたナショナルな帰属意識は矛盾しません。ただこの無矛盾性をきちんと論じるには、私自身がドイツのユダヤ人について勉強不足であることを認めざるをえません。

私たちは、ドイツのサラブレッド生産及び競馬の歴史にとって、一つのマイルストーンとなった年を終えようとしている。

これは『パティエンスからネレイーデまで』の冒頭の言葉です。シュテルンフェルト自身がユダヤ人馬産家たちと共に築いてきた「ドイツのサラブレッド生産及び競馬の歴史」において、ナチ最盛期の1936年に「一つのマイルストーン」となったネレイーデの活躍の意義とは何か、それを語らないままではネレイーデ物語は中途半端といわざるをえません。しかしこれをこなす為には一冊の本を書くくらいの力量が必要なのです。ですが残念ながら今の私にそれだけの力はありません。今後もこのテーマで上梓できる保証はありません。ただ個人的課題としては残していくつもりなので、今後のブログエントリーで断片的に触れていくことはあるでしょう。

もっとも、一応書きあがっているネレイーデ自身の生涯を眠らせておくのはもったいないので、結果「中途半端」と明言した上でこの度蔵出しすることにしたわけです。断念したテーマについても常に意識しながら書いてはいたので、読んでくださる方にもその辺を頭の隅に置いておいてくださればと思います。

最初に触れたとおり、各節毎に連載形式で順次アップしていきます。その際「はしがき」としてこのブログ上に、註というか補足や旧ブログ上での間違いの訂正箇所などをアップします。各節に関するご意見、ご質問、ツッコミ等がある場合は、それぞれの「はしがき」のコメント欄に書き込んでいただければ幸甚です。

posted by 芝周志 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語

2009年08月18日

日本の夏は相変わらずしんどいのです…

みなさん、お久しぶりです。殆ど競馬脳が止まっている芝です。はてブ見てる人は生きてることくらいお気づきではと思いますが、一応生存確認ということで夏バテ、冷房負けの体をのそのそ動かして取りとめもなく。

先週水曜日、お盆で暇なのを当て込んで職場にカメラと三脚を持っていき、定時上がりでお台場へ行くつもりでいたら、こういうときに限って無駄に嵌って、9時過ぎに着いたときにはライトアップが終わってた罠…orz

まあしかしこれはこれで悪くないかなと。多分日中ほど混んでなかったし、屋台群の場所が少し盛り土で高くなっていて、店仕舞い後で堂々と三脚を立てられたので、3枚目のような写真が撮れた次第。しかし如何せん暗いからAFがなかなか上手く反応せず、マニュアルで試したところで合わないものは合わないわけで、とにかくピント合わせにえらく苦労した。結局僅かに外光を浴びている部分にフォーカスを持っていき、そこでAFを反応させる。被写体が微動だにしないというのが有難い。大体1秒から1枚目の写真だと15秒も開放して撮っている。2枚目についてはフォトショで少し明るくしたけど。因みにISOはどれも320。

自称「アニヲタ3級」としては、「ヱヴァ破」に続いて「サマーウォーズ」も見に行ってきたわけだが、こちらは普通に楽しませてもらった。あれこれ深く考察するのは野暮というもので、最初の暗号を正解していなかった健二君がなんでいきなり指名手配されて顔写真まで流出してたのかとか、夏樹の両親は物語最後に漸く上田まで辿り着けたのに、万助おじさんはなんで2時間で漁船を取って帰ってこられるんだよとか、その他諸々細かいとこは突っ込んじゃダメなのであって、素直に型破りな大家族エンターテイメントを楽しめば良いのである。花札大勝負も冷静に考えると突っ込みどころ満載なのだが、この場合は雰囲気に呑まれて感動しちゃったもの勝ちなのだ。「ヱヴァ破」のように2度お金を出して見に行こうというほどではないけど、DVDが出たらレンタルでまた見ようかなというくらいの価値はあり。

で、一応ドイツ競馬も。だらっとしてる間に4つもGr.I終わってるんだよねぇ。一昨日のラインラント・ポカールはヒルシュベルガー馬2頭の一騎打ちになって、ダービー馬Wiener Walzerがドイツ賞馬Getawayを短頭差に抑えて勝利。フランスのファーブル厩舎からドイツに戻ってきたGetawayが最初からGAG99.5kgをつけてたから、Wiener Walzerは評価の低かったダービーのGAG96kgから一気に100kgにジャンプアップ。しかし個人的にはまだWiener Walzerの力に懐疑的なんだよね。圧倒的な強さはいまだ感じられず、鞍上ヨハンソンの絶妙なペース配分が上手く嵌ってる感じで、もっと厳しい競馬になったらどうなのかという思いは拭えない。一方デフリースはどこかついてない。ダービーでは選択馬を外し、ドイツ賞はカタール主催のアラブ馬レースを契約上優先せねばならなくてGetawayに乗れず、ラインラント・ポカールでも微妙な線で星を落としてしまい、このままだと1年限りでシュレンダーハーンとの契約解消になりそう。

ディアナ賞はフィッゲ厩舎所属Night Magicが軽快な逃げ切りで快勝。これは強かった。今年の最終目標はオペラ賞だが、Stacelitaやブエナビスタが不在なら十分勝負になると思う。またノルトライン・ヴェストファーレンの馬が常に主力を形成するドイツ競馬にあって、ミュンヘン所属馬のGr.I制覇というのも快挙。鞍上ケレケシュは昔から腕のいい騎手だとは認めていたのだけど、フィッゲとの関係が深いせいかラインラントへ移籍する様子もなかったので、このコンビで勝てたことも意義深い。

バイエルン・ツフトレネンは…、ま、いいか。

次回から、書き溜めしておいたものを順次蔵出ししてしまうかと思う。本当はもう一つまとめてからにしようと思っていたのだけど、そちらは考えれば考えるほど生半可なことが書けないと痛感したため、一旦諦めることにした。参考文献一覧をまだ整理してないので、今週末あたりにでもと一応予告。

posted by 芝周志 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | カメラ・写真

2009年07月19日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見て

ドイツ在住中に上映していたためまだ見ていなかった「ヱヴァ序」を先日漸く鑑賞し、早速「ヱヴァ破」も劇場で見てきた。サクッと言葉にはし難いのだが、思いつくままに考えるところを書いてみたい。

ネタバレしまくりなので、まだ見てない人は読まないでください。そして少なくとも旧作で色々と思いを巡らした過去のある人は、「ヱヴァ序」を前もって見た上で、是非「ヱヴァ破」を見に行ってください。誰もが手放しで評価できるとはいいませんが、新たに向き合ってみる価値は十分にあります。ただこの感想を含め、「ヱヴァ破」自体の前知識はできるだけ持たずに見に行きましょう。

では、以下「ヱヴァ破」を見た人だけどうぞ。

続き
posted by 芝周志 at 04:01| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・映画等

2009年07月07日

4度目の挑戦で初制覇を果たしたWiener Walzerのダービー

普段一日PV数10前後の路地裏ブログなのにいきなり100件超えしてビビりましたよ殿下(ご挨拶

それにしてもかすりもしなかったな私の予想…orz ヒネッケ兄弟の兄ハネスが一応本命当てて、穴予想のToughness Danonが3着に突っ込んだからワイドくらい取ってるかもしれん。

ということで、Wiener Walzerが4度目の挑戦で遂にダービー制覇。初挑戦が2000ギニー2着の看板で挑んだ1936年で、名牝Nereideの圧勝劇の前に6着と敗退。2度目の挑戦となった1960年がこれまでで最も優秀で、Alarichに短首+1馬身差の3着。2歳時には無敗でヴィンターファヴォリート賞を勝ち、3歳春には2000ギニーを制したクラシックホースでもある。因みにこのときはシュレンダーハーンではなく、ツォッペンブロイヒ牧場所属。3度目の1987年はどこをステップにしてきたのかもよく分からず、オーナーもこの一度切しかダービーに出走させたことがない小馬主だし、単勝129.6倍という全くのアウトサイダーのまま17着。そして63年振りにシュレンダーハーン所属に戻った今年、念願のタイトル獲得となったわけだ。

まあドイツは母親頭文字ルールがあるから、20~30年毎に甦る馬はよくいるわけです。本当は私の本命Saphirが勝ったら、まはるさんも触れていた20世紀初頭のドイツ馬産を支えた種牡馬Saphirについて少し調べ直そうかとも思っていたのだけど(断片として記憶していて頭の中で整理されてない)、Gr.I取るときまで棚上げしておきます。つか、Thoroughbred Horse Pedigree Queryでは10頭目だよ今年のSaphir

さて、今年のレースタイムは2:29,56で、10年振りに2分30秒を切った。馬場荒れデフォルトのダービーとしては明らかに速い。スタート後のスタンド前は最低人気のDouble Handfulと同じく人気薄のOrdenstreuerが競り合い、Oriental Lionのペースメーカー役の可能性もあったGlad Pantherも好スタートで前に並んでいたから、1コーナーを回るまでは結構速いラップだったはずだ。しかし向正面に入る前にOrdenstreuerがきっちり2番手に控えたことで、ペースがかなり落ち着いた。Wiener Walzerは4~5番手で、その外にOriental Lion。SuestadoはWiener Walzerのすぐ外目後ろで、位置取りとしては申し分なかったはず。EliotはSuestadoの更に斜め後ろ外。Toughness Danonは馬群中央に位置し、Saphir、Sordino、Quo Dubaiが並んで最後方。Boliviaがその1馬身前という向正面の展開だった。

3コーナーを回った辺りで徐々に動き出すが、Suestadoは手応え悪く最終コーナーでは完全に馬群に飲まれてしまう。Wiener Walzerは3、4番手にいたHansomが外へ膨れた間にサッと入り込み、粘るOrdenstreuerを交わして先頭へ躍り出る。そして後方から追い込んできたSordino、Toughness Danon、Eliotを押さえ込んでゴール。

総じてWiener Walzerのレースには無駄がなく、ヨハンソンの腕が光った内容だったと思う。向正面で思いのほか流れが落ち着いたことで、末を活かせたのも良かったのだろう。その点Suestadoにも無理はなかったのだが、3戦目での重賞初挑戦がダービーでは、なんやかんやで馬に与えるプレッシャーが大きかったのかもしれない。2着に入ったSordinoは大外一気。前走ブレーメンのトライアルでは超スローペースで脚を余して3着に敗れていたのだが、元々期待度の高い馬だったし、こういったある程度速い流れなら突っ込んできてもおかしくなかったのだ。中1週もマイナス評価されてしまう要因だったのだけど、結局あのレースでは殆ど力を使ってなかったのかもしれない。3着Toughness Danonの堅実さは少々神憑ってきた。バーデン大賞あたりでちゃっかり2着になり、「世界最強の未勝利馬」という、かつてEgertonが掲げた輝かしい称号を引き継ぐのではなかろうかw

Saphirは、SordinoやQuo Dubai(5着)と同じようなところにいながら、逃げ粘ったOrdenstreuer(6着)にも届かず7着。この順位はこの馬なりに伸びていた証なのだけど、バヴァリアン・クラシックで見せた鉈の切れ味では届かなかったというか、あの時競り合ったPeligrosoが中1週のウニオンで完全に力尽きていたように、Saphirにも結構あのレースは応えていて疲労が残っていたのかもしれない。とりあえず無理させず、古馬になってから本格化させる育て方の方がいいのかもしれない。

尚、Wiener Walzerの今後の予定は今のところ未定。ラインラントポカールかバーデン大賞が一応視野にあるようだが、凱旋門賞への追加登録という話はまだ出ていないようだ。

posted by 芝周志 at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ競馬