2010年02月02日

恒例の勝手に2009年ドイツ競馬年度代表馬

 どうも皆さん、無沙汰いたしております。なんかあっという間に2月になっちゃって今更ですが、今年もどうぞよろしくです。

 実は本家ブログであるこちらをよそに、今年に入ってからはてなダイアリーを使って、本やアニメ等の感想ブログを始めてたりしてます。
 周志の読み跡・視聴跡
 アニメに関しては、今期放映中でレビューしてるのは「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」だけなんですが、この作品、いいんですよ。かなり嵌ってます。「世界観がよく分からない」「展開がまるで読めない」ということで一部ネット界隈では不満の声も燻り始めてはいるのですが、このアニメはジグソーパズルのピースを埋めていくように見ていくのがよし。多分全体像が見えてくるのはようやく4分の3を過ぎたくらいなんじゃないかなと。
 レビューはしてませんが、も一つ、「はなまる幼稚園」。ひーちゃんが可愛すぎます…(*´Д`*) ひーちゃんみたいな娘が欲しいです。ひーちゃんのパパになりたいです。誰か私のためにひーちゃん産んで下さい。

 さて本題。

 例年以上に途中から尻すぼみでまともにフォローできてなかったドイツ競馬ですが、一応振り返りの意味で例年通り勝手に年度代表馬を部門別に決めてしまいたいと思います。例年通りのマイルールで、選考対象馬は「ドイツ調教馬」及び「ドイツで出走した外国調教馬」です。参考として馬名横に年度GAG、Thoroughbred Pedigree Queryの5代血統表へのリンクを付けておきます。

 ではまず各部門賞から。

最優秀2歳牡馬: Zazou(94.5kg)

 いきなりどの馬にしようか悩ましい部門。09年のドイツ2歳馬にはあまり飛び抜けた存在がなく、またヴィンターファヴォリート賞(Gr.3、ケルン、1600m))がオープン級の勝者決定戦にならなかったため、能力比較がし辛くなってしまった。Zazouは8月16日BBAGオークション・レネン(ケルン、1300m)1着、9月4日ツークンフツレネン(Gr.3、バーデンバーデン、1400m)4着、10月23日フェルディナント・ライステン・メモリアル(BBAGオークション・レネン)(バーデンバーデン、1400m)1着の後、11月14日サンクルー・クリテリアム(仏Gr.1、2000m)に挑戦し、最後は力尽きたもののゴドルフィンのPassion For Gold相手に唯一見せ場を演じた3着で、シーズン通して高いレベルで戦ったことを評価したい。ヴィンターファヴォリート賞馬Glad Tiger(94kg)は未勝利3着から2戦目での首差勝利で、その年を代表するという意味ではインパクトに欠ける。もっとも兄Glad Lionが03年の同レース勝馬、Glad Pantherが09年3歳春季賞(Gr.3)を勝っており、血統的な潜在力は高いので、今年も注目すべき1頭ではある。また世代最高GAGを付けているのはヘルツォーク・フォン・ラティボア・レネン(Gr.3、クレーフェルト、1700m)を勝ったNeatico(95kg)で、このレースでの強い勝ち方が評価されたもの。シーズン最後に現れた大物といった感じだ。年内デビューのダービー候補としては、この馬が一番の注目株になる。

最優秀2歳牝馬: Neon Light(94kg)

 こちらもオープン級の勝者決定戦になるレースがなかったので能力比較はし辛いのだが、レースレベルの高さで素直にヴィンターケーニギン賞(Gr.3、バーデンバーデン、1600m)を勝ったNeon Lightでいいだろう。このレースでは名牝Elle Danzigの仔でデビュー戦を9馬身差圧勝したElle Shadow(93kg)が1.8倍の人気を集めていたが、同じくデビュー戦を8馬身差圧勝で臨んだNeon LightがElle Shadowの追撃を4分の3馬身差に押さえ込んで勝利。3着はその7馬身後ろで、この2頭は明らかに抜けた存在だ。

最優秀3歳牡馬: Wiener Walzer(100kg)

 ダービー(Gr.1)とラインラントポカール(Gr.1)、ウニオン・レネン(Gr.2)を勝ち、GAG100kgのこの馬以外選考の余地なし。ただバーデン大賞(Gr.1)では事実上Getawayのラビット扱いで、本当に強い馬という印象が残らなかったのも確か。だがそれにしてもその他の馬が不甲斐なさ過ぎた。ダービー前には一押ししていたSaphir(95kg)はその後いいとこなしで、ダービー2着のSordino(96kg)もバーデン大賞を目指していたが調整つかずそのまま年内休養。ダービーで1番人気になっていたSuestado(93kg)もその後未出走のまま、なんとウルマン男爵から騎手のミナリクが買い取ってたよ!ヨーロッパは調教師だろうが騎手だろうが自分で馬を持って走らせられるのだからスゴイよ。

最優秀3歳牝馬: Night Magic(96.5kg)

 春先はまだ馬が完成していなかったようだが、7月3日ハンブルクのユングハインリヒ・ガーベルシュタープラー大賞(Gr.3)で本格化し、ディアナ賞(Gr.1)で力の違いを見せ付けての逃げ切り圧勝。昨年同レースを鼻差2着し10月のオペラ賞を制したLady Marianも同じく夏のハンブルクから頭角を現した。ディアナ開催が6月第1週から8月第1週にずれたことで、遅咲きの馬が見事に恩恵を受ける傾向がはっきり顕れている。ちょうど前回、前々回のエントリーで取り上げたMoonladyやRoyal Fantasyも夏から本格化してセントレジャー等を制しており、もし当時もディアナが8月開催だったらあっさり勝っていたのかもしれない。Night Magicはその後オペラ賞へと向かうが、ここでは明らかに能力以下の走りで最下位。だがレディア・テシオ賞(伊Gr.1)を頭差2着の接戦を演じて汚名挽回し、ディアナ馬の面目を保った。因みにこの馬はミュンヘンのフィッゲ厩舎所属で、ノルトラインヴェストファーレン州に有力厩舎が集まるドイツではちょっとした快挙であった。主戦のハンガリー人騎手ケレケシュは結構上手いのだけど、長年フィッゲ厩舎専属でなかなかビッグタイトルに手が届かなかっただけに、Night Magicの活躍は厩舎共々格別嬉しい成果だったに違いない。
 ところでシュタインメッツ厩舎のNight of Magic(92.5kg)もイタリア・オークス(伊Gr.2)を勝ち、セントレジャー(Gr.3)でも2着になる活躍を見せた。レディア・テシオ賞では両馬とも出走しており、直線で競り合うNight Magicをイタリアの実況が"Night of Magic"と連呼するなかなか紛らわしい珍現象が起こっていた。

最優秀古牡馬: Getaway(101kg)

 ドイツ賞(Gr.1)、バーデン大勝(Gr.1)勝利、及びラインラントポカール(Gr.1)を僚馬Wiener Walzerに短頭差2着のGetaway以外の選択肢はない。前年まではフランスのファーブル厩舎で英仏Gr.1戦線走り、また一昨年の凱旋門賞でも4着に入っていた実力馬だから、ドイツに転厩すれば一つ抜けた存在となるのは至極当然ではある。しかし他の古馬陣にGetawayを脅かす存在が現れなかったため、ドイツ古馬路線はどうにも盛り上がらなかった観は否めない。まあ一番の戦犯はなんといっても前年ダービー馬Kamsin(97.5kg)なのだけど。春緒戦のゲーリンク賞(Gr.2)こそ勝利するものの、内容は実に危なっかしい辛勝。そしてその後は煮え切らないレースが続き、結局1勝のみ。前年Gr.1戦3勝馬(繰り上がり1位含む)としては期待外れも甚だしかった。前年度代表馬のIt's Ginoが故障から戦線に戻れず引退してしまったのも大きかった。春3連勝でGetawayを押せてハンザ賞(Gr.2)を勝ったFlamingo Fantasy(98kg)には上がり馬としての期待が高まったが、いざGr.1戦線に突入するとシュレンダーハーン陣営に水を空けられてしまった。
 ドイツ国内戦線とは別に、Quijano(99.5kg)は海外Gr.1転戦に明け暮れ、それなりに好成績は残したものの、結局勝てたのはミラノ大賞(伊Gr.1)だけだったのは残念。

最優秀古牝馬: Salve Germania(94.5kg)

 07年、08年はFair Breezeがよく頑張ってくれてたお陰で、この部門もそれなりに見るべきところがあったのだけど、09年はまったくもって寂しい限り。該当馬なしでもよかったのだけど、Salve Germaniaが8月29日サラトガのバリストン・スパH(米Gr.2)であっと驚く後方一機の大金星を挙げていたのでご褒美に。

最優秀スプリンター: War Artist(97.5kg)

 ドイツ国内スプリント王決定戦ゴールデネ・パイチェ(Gr.2)を掻っ攫っていった英国馬。07年に南アフリカでGr.1を勝ってる馬である。ここをステップにアベイユ・ド・ロンシャン(仏Gr.1)で3着に入ったり、その前にもジュライC(英Gr.1)で3着しているなど、英仏スプリントGr.1の常連であるこの馬に、Smooth Operator(96kg)やContat(93.5kg)、Etoile Nocturne(92.5kg)あたりが敵うはずもなく、ここは大人しく外国馬に部門賞を与えましょう。
 但し今年はあのハンガリーの弾丸Overdoseがホッペガルテンの厩舎に調教師共々移籍してきたので、故障からしっかり立ち直っていれば、ドイツのスプリント路線を賑やかにしてくれるに違いない。

最優秀マイラー: Irian(98kg)

 ドクター・ブッシュ・メモリアル(Gr.3)からメール・ミュルヘンス・レネン(Gr.2)という3歳マイラーの王道を制し、ジャン・パレ賞(仏Gr.1)では前が開かない不利を被りながら半馬身差の3着と好走する。さすがにジャックルマロワ(仏Gr.1)のGoldikovaには全く歯が立たなかったが、4着ならまずまずの成績だろう。ただこの後オファーが入り、今年から香港で走ることになった。順調に行けば安田記念にも来るかもしれない。
 その他古馬陣は低レベルでの世代交代が出来ず、エッティンゲン・レネン(Gr.2)とオイローパ・マイレ(Gr.2)は英国馬Premio Loco(98kg)に掻っ攫われる始末。Irianがいないとなると、今年のマイル戦線もお寒い状態になりそうだ。

最優秀中距離馬: Pressing(98.5kg)

 2007年のSoldier Hollow引退以降、この路線も後継馬が現れないなぁ…。シーズン明け当初はLiang Kay(96kg)に大方の期待が集まっていたのだけれど、肝心なところで中途半端な走りになり、結局取った重賞はようやく10月のバーデン・ヴュルテンベルク・トロフィー(Gr.3)のみ。Wiesenpfad(95.5kg)も4年連続で重賞を勝ったのは立派だが、結局Gr.3馬止まりで終わってしまった。でも種牡馬の口があったのはよかった。というわけで、国内唯一のGr.1バイエルン・ツフトレネンをさっくり奪っていった英国馬Pressingに当部門賞。今年は3歳でいい馬出てきてくれないかなぁ…。

最優秀2400m馬: Getaway(101kg)

 これはGetawayかWiener Walzerのどちらかになるわけだが、バーデン大賞で古馬の貫禄を見せ付けた分Getaway。

最優秀長距離馬: Flamingo Fantasy(98kg)

 07年、08年のLe Miracleのように国外長距離Gr.1に挑戦するような馬がいなかったとなれば、国内の2つの長距離重賞ベティー・バークレイ・レネン(Gr.3)かドイツ・セントレジャー(Gr.3)を勝った馬から選択する他なく、となれば途中から2400m路線にシフトしたものの長距離準重賞ジルベルネス・バントとベティー・バークレイを連勝したFlamingo Fantasyを選ぶのが順当かなと。

 而して年度代表馬は…。

 恐らく芝シーズンが始まる頃にのそのそと行われる公式の年度代表馬選考に倣い、まず3頭ノミネートするならば、

 Getaway
 Night Magic
 Wiener Walzer

 そしてここから選ぶと、バーデン大賞の貫禄で

 2009年度代表馬: Getaway

 しかし終わってみれば、古馬、3歳牡馬、マイルでシュレンダーハーン/ウルマン陣営が主要レースを独占で、なんとも面白みに欠ける1年だった。まあ長年牧場を支えてきたカリンさんが亡くなったこともあり、弔いの意味でも陣営は頑張ったのだろう。加えてSea the StarやStacelitaという同牧場伝統の牝系に連なる馬が欧州レベルで活躍し、2009年はまさにシュレンダーハーン牧場の年だったといっていい。

 しかし今年はもっと群雄割拠するようなレースシーンを見てみたいものだ。
 
posted by 芝周志 at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ競馬

2009年12月15日

引き続きドイツ母Moonladyの仔がオープン馬に

 前回取り上げたミッションモードに続き、13日にも阪神500万下エリカ賞でドイツ母を持つ馬が勝ち上がった。

 エイシンフラッシュ

 母の名はMoonlady(父Platini)。2000年の3歳時のみ走り、9戦6勝(うち重賞4勝)を収めて、世代最強牝馬に君臨している。2001年に渡独した私は生で見ていないのでRoyal Fantasyのような思い入れはないが、一応この機会にビデオを見てみたところ、なかなか惚れる走りっぷりの馬ではないか。

 春は未完成だったためヘンケル・レネン(独1000ギニー)にもディアナ賞(独オークス)にも出走していないのだが、思い切って挑戦したハンブルクでの牝馬G3(2200m)で直線の競り合いを制し、驚きの重賞勝利。続くブレーメンでの内国産牝馬限定準重賞では圧倒的人気で余裕勝ち。ここでエーレンホフ牧場から馬主がゲーリー・タナカ氏に移り、緑と白の勝負服でハノーファーのドイツ牝馬賞(G3, 2400m)に出走。他馬を捻じ伏せ、重賞2勝目を上げる。レース振りは基本的に先行から早めに先頭に立ち、力で押し切るパターンだ。ここまでのレースでの着差はどれもそれ程大きくないのだけど、並びかけてきた馬を決して抜かせない力強い勝負根性が光っている。そして混合戦となる独セントレジャー(G2)では、見るからに重い馬場を重戦車の如く突き進み、長丁場に力尽きた牡馬たちを蹴散らして4馬身差で圧勝した。

 そこで伝統のフランス長距離G1ロワイヤルオーク賞に挑戦するが、ここでは良いところなく7着に敗れ、連勝が途切れる。だがその後、日系アメリカ人馬主タナカさんの意向か、ロング・アイランド・ハンディキャプというアメリカの重賞(G2)に臨むことになった。しかもそのレース、直前の大雨で馬場状態が悪化したため急遽ダート戦に変更、距離短縮という、バリバリの重重欧州芝競馬をやってきたMoonlady陣営にとっては「無茶言うなよ!」とツッコミ入れたくなる条件で走らされることになったのだ。だがしかし、Moonladyは初めてのダート戦をものともしなかった。2頭並んで逃げる厳しい展開から4コーナー手前で抜け出し、そこからは後続を寄せ付けず、見事3馬身差でアメリカ馬を圧倒したのである。

 母方はナチ時代からのドイツ血統。1938年にニューマーケットのせりで落札されたMorning Breezeがドイツでの始祖となる。この落札者は「ネレイーデ物語4」で出てきた競馬好きナチ官僚のC.ヴェーバーだ。もっともその後フランスから連れてこられた馬たちとは違い正規に輸入されているので、戦後も没収されることなく、再建されたイザーラント牧場の基幹牝馬となっている。ここからエーレンホーフ牧場に分岐した牝系がMoonladyの祖母で1987年牝馬2冠馬のMajoritätを輩出。そこから2004年ウニオン馬でダービー2着のMalinas、2007年ディアナ馬Mistic Lipsへ続くなど、このラインはドイツの名牝系の一つとなっている。また今や欧州の一流種牡馬となったMonsunも、イザーラント牧場に残った牝系の出身だ。現在Moonladyが社台にいるのは、Monsunと同系ということで吉田さんが連れてきたのかもしれない。

 さてその息子エイシンフラッシュだが、2000mを2:05.3という随分スローなレースであったものの、終いよく伸び、且つブルーミングアレーとの競り合いを制す勝負根性もあって、今後まだ期待が持てそうだ。しかし上のクラスに行けば当然速い展開も経験することになるだろうし、そのとききっちり付いていかれるかどうかが鍵になるのだろう。
posted by 芝周志 at 02:34| Comment(6) | TrackBack(0) | 日本競馬

2009年12月08日

Royal Fantasyの仔ミッションモードをえこ贔屓します

 JCダート前日の土曜中山、スボリッチが珍しく関東に来るので彼を撮りに行こうかと思うものの、メインのステイヤーズSでは乗り馬はサンデーフサイチで勝ち負けにはちょっと心許ない。空もどんよりでメインの頃にはほぼ間違いなく振り出しそうな気配であり、もう面倒くさいから行くのやめようかと半ば決めかけていた。しかし何となくJRAのサイトで葉牡丹賞のメンバーを眺めていたら、1頭の馬の血統にぬぬぬ!と目が留まった。

 ミッションモード

 まず父Galileoというところに大抵の人は目が行くだろう。そりゃあ欧州の一流血統だ。しかもアーバンシーの仔でもあり私としても以前から贔屓の種牡馬である。だがそれ以上に母の名ですよ!Royal Fantasy!少々在り来たりな名前だから全然違う馬かもしれないと思って念のため調べてみたら、父Monsun。決定だ。2003年独セントレジャー馬、あのお転婆で愛くるしい瞳を持った栗毛の少女Royal Fantasyである。全く気づいていなかった。まさか吉田さんの所有馬になっていたとは。まさかあのあどけないやんちゃ娘の子供が日本で走ることになろうとは!しかもよく見ると人気の一角を担っている。欧州血統ゆえにスピード勝負に不安はあるが、幸いやや重で更に天気が崩れる傾向。これはメインなんかよりこっちのほうが重要だとばかりに競馬場へ直行。そしてミッションモードはスミヨンの鞭に応えて見事に馬群を裂き勝利。



royalfantasy2.jpgホント、好きだったんだよね、Royal Fantasy。なんといってもそのデビュー戦が印象的だった。最後の直線で突然外へ大きく膨れて騎手を振り落とし、前で競り合う牡馬たちを一気に抜き去ったのだ。それはまるで両手を広げ、満面の笑みで草原を駆けてくる少女のように。つか、こんな写真持ってる奴なかなかいないだろw

 しかしこんな性格だからしばらく未勝利から抜け出せず、ちぐはぐなレースを続ける。具体的には馬を落ち着かせるため馬群に入れてレースをさせていたのが裏目に出ていたようで、後方外目に控えるようになってから一気に素質を開花。そこから3連勝でセントレジャーを制したのである。

03stleger(Royal Fantasy).jpg


 4歳になっても現役を続けたRoyal Fantasyは結局未勝利に終わるものの、独仏の重賞戦線で好走し、ヴェルメイユ賞(仏G1)で2着に入ったのは十分誇りとしていい成績だ。一方春緒戦のゲーリンク賞(G2)ではパドックから本馬場へ向かう途中でまたしても騎手を振り落とし、競馬場から外周道路まで飛び出すという、相変わらずのお転婆振りを発揮している。パドックで写真を撮った後、本馬場へ入ってくる前に即効で彼女の単勝馬券を買ってコース際で入場を待っていた私は、いつまで経っても彼女が現れないことにえらく困惑したことをよく覚えている。その後にもどのレースだったか忘れたけど一度騎手を振り落としており、実にしょもない娘だった。それでも秘めた素質は一級だったし、そして何よりあのくりくりした無邪気な瞳が本当に可愛かった。

 そんな彼女が母になり、その仔ミッションモードが日本でオープンクラスに踏み込もうとしている。瞬発力勝負ではやや分が悪そうな感じがするが、ある程度長い距離で自力がものをいう勝負になれば、高いクラスも期待できそうだ。

 そんなわけで、今年の2歳馬ではミッションモードをとことんえこ贔屓して応援することにする。

 ところで上に写真を挙げたように、かつてネガフィルムで撮っていた競馬写真を、これを機にフィルムスキャナで取り込み始めた。ドイツで使ってたフィルムスキャナより、複合機のCANON MP980のほうがなんだか綺麗に読み込んでくれるので、現在サイトに上げてある古い写真の差し換えも含めてこつこつ作業しようかなと。にしても、NIKON F60にSIGMAの70-300mm, F4-5.6を付けて撮ってたときは1コマ/秒だったから、実際には押しっぱなしでなく自分のタイミングでシャッターを切っていたので、直線2、3枚の勝負とかだった。8コマ/秒でフィルム切れを気にすることなく撮り捲くっている今からは信じられない。よくやってたよな俺。
posted by 芝周志 at 02:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本競馬

2009年11月25日

スマイルスキャン考

行き詰まりを見せている当ブログで遂にはてブの延長戦をやってしまおうかなと。
(ま、ちょっと議論のピークは過ぎちゃったっぽいですが)

以下私がコメントしたはてブページを、ブコメした順に時系列でリンク。

1.はてなブックマーク - 分野別地域貢献活動 | オムロン
2.はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
3.はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
4.はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
5.はてなブックマーク - スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!

 はてブ内議論の発端は2の元記事になるが、そこでのブクマに貼られたリンクから、スマイルスキャン開発のきっかけが盲学校の感情教育と知り、その話の大元と思われる1の元記事にまずブコメする。しかしあまりに注目されないので2にもブコメし、メタブまで付き合った次第(5は当記事へのトラバ用)。即ち私自身がこのネタに食いついたのは、2の元記事内容よりスマイルスキャンの開発のきっかけが引っかかったからである。

 しかしそれについては、一旦脇へ置こう。このスマイルスキャンを巡る議論は、当然人それぞれの捉える視点によって評価が変わるわけで、私としては以下4つの論点に分けて愚考し、その中で改めて私の見解も表してみたい。

◆純技術的視点
 科学技術自体には罪はなく、技術の運用方法にその責は問われるべきという意味で、スマイルスキャンが持つ技術そのものにまず視線を向ける必要があるだろう。

この技術を自己フィードバックすることができるならば、ロボットが自分で判断して、表情を作ることができるかもしれません。3D映像でなら、「AIが感情表現として表情を作る」事も可能かも知れません。
(中略)
技術というのは、一つ一つ見れば本当に馬鹿馬鹿しいようなネタも沢山あります。
でも、その組み合わせや応用次第で、どこまでも世界を広げることが出来ます。

スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!


 torin氏のこの見解に全く異論はない。複雑なコマンド指示を必要としないロボットとの対面のコミュニケーションが出来れば、様々な利便性を見いだせるだろうし、アトムのような夢もある。またスマイルスキャン技術と類似の製品では、カメラの笑顔認識機能が挙げられるだろう。私のようなアマチュア写真家だと「笑顔のシャッターチャンスも自分で捕らえてこそ本望」となるが、それを誰に対しても要求する気は毛頭なく、手軽に子供の笑顔を写したいと思っているお母さんなどには、とても便利な機能だと思う。それゆえ笑顔を認識するという技術そのものが否定されるべきとは全く思わないし、精度を高める開発が大いに進んでくれていいと思う。

 但し、技術は運用方法によって負の側面を現わし得ることも然り。在り来たりな例だが、ダイナマイトは土木事業に欠かせない道具であると同時に、人を殺す武器にもなる。スマイルスキャンで人を殺せるとは考えないが、負の作用、あるいは良しと思われてた効果に負の側面が付随している可能性を意識することは、忘れてはいけないのではないだろうか。

◆娯楽製品としての運用
 スマイルスキャンから最初に連想したのが、実はカラオケの歌唱力判定機能だった。最近は消費カロリーを表示するものが多いようだが、私が8年前に渡独した前は(注:昨年2月に帰国してます。一見様のため念のため)、結構当たり前のようにあった。歌唱力判定機能では、あからさまに音程を外したり、小声でぼそぼそ歌っていれば点数が低いのは当然。まずは歌そのものに至っていないのだから(この場合、気持ちよく歌えりゃそれでいいというのは別の話)。しかし歌としてのバランスが取れた中で敢えて一拍ずらしてみたり、声量に強弱をつけてみるのは歌いこなしの範囲であり、それが歌唱力判定機能の基準から逸れて高得点を出せなかったとしても、下手だとは見做せないだろう。レコード大賞の最優秀歌唱賞が歌唱力測定器で決められてたら興醒めもいいところである。しかし恐らく大抵の人はそれを分かった上で、遊びとしてあの機能を面白がっていたはずだ。これは一過性の娯楽に過ぎないわけである。

 それと同様に、スマイルスキャンが遊びの道具として使われたとした場合、私はあまり抵抗を感じない。各々が笑顔を作って、その点数を見てキャッキャウフフするのは一向に構わない。その限りでは一過性の娯楽に過ぎないからだ。しかし歌唱力と違って、笑顔は日常的な個人の個性により密着しているものだから、点数付けが人物評価に結び付く可能性もありえる。場合によってはいじめの原因になりかねないという点で、「負の側面」を意識しておく必要はあるかと思う。

◆盲学校での感情教育としての運用―開発のきっかけ
 さて、私が最も引っかかった論点である。一過性の娯楽と違い、教育という重要な課題をもった実用的運用であるから、その在り方にもより慎重であって然るべきだ。
 オムロンによる1の元記事を見てみよう。

鍼灸師を目指して盲学校で学ぶ生徒にとって、笑顔をはじめとした「表情づくり」はこれまで大きな課題のひとつになっていました。鍼灸師も接客業のひとつであり、お客様とのコミュニケーションにおける“笑顔”が大切ですが、生まれつき全盲の生徒は自分の笑顔を知りません。
(中略)
和歌山盲学校では、スマイルスキャンを生徒たちへの感情教育に役立てるだけでなく、職員の日頃の“笑顔チェック”にも活用して、明るい教育現場づくりに役立てていただく予定です。

分野別地域貢献活動 | オムロン


 単にこれだけ読めば一見いい話である。視覚障害者が鍼灸師として接客に臨むとき、客に安心と好感を持ってもらうために、笑顔が重要だという考えは確かに認める。何故なら、恐らく客の大多数が、目が見える者たちだからだ。客の立場に立ち、客の満足感が何かを知ることが接客業として基本なのは確かだろう。それゆえ、接客業に就く視覚障害者が笑顔を覚えようという意思そのものは私も否定できないし、否定する気はない。だがしかし、これってある意味絶望的なほど悲しい努力だとは思わないだろうか?なぜなら、彼らには自分が作った笑顔が相手にどう映っているか、そして相手がどんな笑顔を返してくれているのか見えないのだから。

 目が見える者同士は、見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識し、そこにコミュニケーション上の意味を見出している。互いが同じ条件にあるからこそ機能しているコミュニケーション手段なのである。マジョリティである目が見える者たちは、日常において何の疑問も持たずに笑顔をコミュニケーション手段として用いているのである。そう、何の疑問も持たずに。しかし視覚障害者には見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識することはできない。見える者が何の疑問も持たずに返した笑顔を、彼らは認識することができないのだよ。今このブログ記事を目で読んでくれている方々、私も含め、私たちの笑顔は彼らには見えないのだ。即ち何の疑問も持っていなかった私たちの見た目の表情としての笑顔は、この瞬間コミュニケーション手段として破綻しているのである。それも目が見える私たちの方がお手上げだ、という意味で。それにもかかわらず、視覚障害者の人たちは、私たち目が見える者に合わせて、コミュニケーション手段としては既に片手落ちとなった笑顔を作ってくれるのである。私はこのことに、感謝の気持ちと同時に、どうしようもないほどの申し訳なさを覚えるのである。私はこれまでに、街で手助けされた視覚障害者の人が笑顔で礼を言っている姿を何度も見ている。今まで全く疑問を持っていなかったのだが、恐らく彼らはみな盲学校で笑顔を作る訓練を受けてきたのだろう。マジョリティである目が見える者たちの中で生きていくために。誠に頭が下がる思いでいっぱいだ。

 そこにスマイルスキャンである。歌唱力測定器なら、音程を外しまくれば低得点になるだろう。それは歌として成り立っていないからだ。そしてスマイルスキャンなら、口をへの字に曲げれば低得点になるはずだ。何故ならそれは笑顔として成立していないからだ。でも、口の両端を少し上に上げれば、たとえスマイルスキャンが60点しか出さなかったとしても笑顔である。それでいいではないか。目が見える者たちのために、自分たちでは決して知ることのできない笑顔を作ってくれただけで、既に100点満点なのである。それ以上の高得点を望むことは、マジョリティである見える者たちの傲慢以外何ものでもないんじゃないだろうか。

 そもそも視覚障害者同士は、笑顔を用いずにどうやって自分たちの好意の気持ちを伝え合っているのだろうか?具体的には知らないが、素人発想のレベルなら、「声」がその一つに挙げられるだろう。声なら見える者、見えない者の間でも共通のコミュニケーションツールとして使える。健常者と呼ばれる我々マジョリティは、自分たちにとって便利なように生活空間を作って楽をしている。しかし視覚障害者だけでなく、その他様々な障害を持った人たちが、健常者が胡坐をかいている空間で人一倍の手間や労苦を被っている。マジョリティの中でマイノリティが生きていく以上、いくら理想論を言ったところで、マイノリティがマジョリティに合わせていくのは避けがたい現実だ。しかしそこで、彼らが自立するために自分たちには知覚できない表情まで訓練するのが当然だ、とするのなら、それを最低限頭で理解しているマジョリティは、彼らのために少しでも気配りをするのも当然じゃないだろうか。機械で数値化してまでマジョリティを満足させる笑顔を訓練させることより、たとえハリ治療の客としてでも、彼らと共通にこなせる「声」をコミュニケーション手段のメインとすべき意識は、持つべきなんじゃないだろうか。少なくとも盲学校で笑顔作りが教育必須とされているなら、健常者の学校で様々な障害者に合わせたコミュニケーションを意識すべき教育もされるべきだろう。そのような意識も抜きに、スマイルスキャンを盲学校にとって良い教育機材だということは、自分の環境に胡坐をかいたマジョリティによるマイノリティの抑圧でしかないと私は考え、その意味においてこの製品は「最低の発明だ」と見做すところである。

◆職場の笑顔訓練としての運用
 本来はてブ上ではこちらがメインテーマだったのだが、私にとってはおまけのようなものなので、長くなってしまったし、おまけのように書く。

 接客を主とした業種では、目が見える者同士である以上、笑顔は重要な要素になるだろう。しかし「無愛想な接客ワールドカップ」をやれば、サッカーのナショナルチーム並に毎回決勝リーグに上がれるくらいの強豪ドイツで長年暮らしてた私からすれば、日本のどこでも笑顔の接客はもう十分すぎるくらいで、なんだかなぁって気持ちが殆どだ。ただ笑顔をある程度訓練することが無意味だとは思わない。この場合コミュニケーション手段として成り立っているからだ。恐らく芸能人などはみな少なからず鏡に向かって練習してると思うし、その笑顔をテレビや写真で見て好感をもったりしているのも事実である。

 しかしスマイルスキャンの場合、100段階の点数化というのが個人的には好きになれない。笑顔には個々人によって当然違いがあり、場面によっても笑い方は異なる。つまり0から100という直線的な数列で表すには不都合なんじゃないかと思うのである。取り敢えず笑顔と認識されるのが60点からだとしたら、それ以上は数値化する必要はなく、あとは職場の仲間同士で仕事振りを見合い、自分らしいよい笑顔を磨いていけばいいんじゃないだろうか。仮に私がスマイルスキャンを導入した職場に勤めていたら、良心的兵役拒否じゃないが、思想信条における理由で、謹んで測定を辞退させてもらう。
posted by 芝周志 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感

2009年11月17日

森繁さんもレヴィ・ストロースも亡くなられ、時代は移りゆくよと

◆このところ何も書かないままドイツの芝シーズンが終わっちゃったし、気分転換にベタなドイツ競馬写真からヘッダを変更。ドレスデンの一角です。多分そのうちまた換えるけど、思いのほかドイツで撮ってきた写真に、横長トリミングで使えるものがない。いずれ日本の写真を使わざるえなくなるか。

◆それでもドイツ競馬ネタをちょこっと。
 1996年のドイツ年度代表馬Lavircoが先日フランスの繁用先で長く患っていた神経性疾患のため安楽死となった。2歳チャンピオンから2000ギニー、ウニオン、ダービーを連覇、オイローパ賞で古馬を一蹴し、まさにその年を代表するに相応しい馬だった。私は修士論文の史料収集のため1カ月ドイツに滞在した折、オイローパ賞でその姿を見ているが、黒光りする馬体が非常に凛々しかったことを今でも覚えている。産駒はそこそこに良績を残したものの、結局GI級を輩出することはできなかった。2006年の独1000ギニー馬となったLolitaの産駒が日本でのデビューを控えているので、母父Lavircoの血を応援したい。

◆全く話は変わるが、約1年半殆ど無使用だった固定電話(IP電話)を昨日解約した。2001年に本格的にドイツへ渡る前は、周りが既に持っていたにも拘らず頑なに携帯を所有しなかったのだが、さすがに帰国後はそうもいかず、かといって固定電話が不要になるとは思わずにNTTと契約した。しかし世の中の手続き全てが携帯番号で事足り、お陰でいつまでたっても自宅番号を覚えられず、結果として親以外誰にも教えることがなかった。そしてその親も、携帯が家族割で無料であるため、固定電話にかけてくることはなかった。ドイツではFAXを持っていたのだが、滞在途中からメールにPDF添付の方が多くなってたし、少なくとも個人宅での固定電話回線は本当に不要になってしまったのだなとつくづく実感している。
 尤も私の場合、職場では一日中デスクワークのため携帯さえ使うことが皆無に等しく、偶に実家と話すほかは、競馬場での待ち合わせ以外に用途がない。週末以外見事に鳴らない電話である。パケット料金に入ってないので携帯でネットもしないし、個人的にはパソコンさえあれば十分だ。来年2月に携帯の契約更新で機種変更することになるのだが、YouTubeから落とした海外競馬動画を見られるのがいいとか、およそコミュニケーションツール以外の機能で探そうと考えている輩である。まあ固定電話のランニングコストが浮いた分、携帯のネット料金に回してもいいのだが、まずはニコ動プレミアムに入ってアイマスMADを高画質で堪能しようかと(おい!
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2009年11月05日

ゾルゲくんが日本へやってくる

一応生存確認ということで。

■ブログ意欲の波というのを今更ながら振り返る。まず毎年ドイツの芝シーズンが始まる春に「書かねば」意識がむくむく湧きあがり、3歳も古馬も勢力図がまだ分からないから結構高い関心を維持してフォローする。しかし大体ダービーが終わったあたりで全体像が見えてきて、レースはチェックしてもブログに書くほどの気力が薄れてくるのである。まったくダメダメだにゃ。
 今年はそんな時期をネレイーデ話で無理矢理繋いだのだが、パソコンがクラッシュしたところですっかり気が抜けてしまった。むか〜し別HNで日記サイトやってた頃は週1回以上勢いで思い浮かぶままあれこれ書いてたもんだけど、おっさん度が増すにつれ、いろんなことに無気力度が増大しているようだ。益々ダメダメだにゃ。

■天皇賞当日8レース、実にダービー以来の単複を当てた。21年前のサクラチヨノオーの単勝1点賭け的中から始まった我が競馬路ゆえ、余程鉄板必至のレースでない限り原則的に単複1頭馬券で勝負するのが長年の慣わしとなっている。その他メインで(偶に気分次第で他のレースも)三連複5点買いというのも帰国以来の習慣になっているのだが(これはドイツで三連単しかなかったことへのある種の反動)、やはり単勝で当ててこそという気持ちは固い(まあ三連複はもっと当たってないのだけど…)。しかし「賭ける」という」行為自体にここ数年熱が入らなくなっているのも事実で、馬券検討もかなり適当にはなってる。
 にしてもこの秋の馬券運のなさは異常だ。やっと特別レースで当たったとはいえ、メインでは気持ちとして応援していたがゆえにウォッカの馬券を敢えて買わないという悲しい選択にならざるえず(倍率的妙味がなかったのもあるが)、私の魔の手はオーケンブルースリーに伸びて、見事4着という外しっぷりであった。もうどうにかしてくれ!

■とはいえ、馬券とは反対に写真は結構いい具合に撮れている。安田で激写してしまったカンパニーが漸く主役となってフレームに収まってくれたし。まあ安田同様ウォッカを途中で見切り、ゴール後思った以上に迫ってたので少し冷や汗かいたが。
 そんな天皇賞の数日前、ドイツの競馬カメラマンのゾルゲくんからメールが来た。ドイツにいた頃私の写真を彼のサイト上のカタログに交ぜ、需要に応じて売ってくれてた、所謂エージェント役をやってくれてた友人で、ほんのお小遣い程度とはいえSport-WeltやVollblut誌、またフェアホフ牧場のQuijanoが年度代表馬に選ばれた感謝広告なんかにも使ってもらえ、結構お世話になった。そのゾルゲくんがジャパンカップに合わせて来日するのである。香港は度々行ってるが日本は初めてなので、JRAから許可取るためにそれなりに交渉しなけりゃいけないらしいが、ヨーロッパでは十分実績あるし、去年はハノーファーで馬がレース中に逆立ちした写真をバッチリ撮って話題を掻っ攫ったくらいなので、不許可になることはないだろう。1週間滞在して競馬以外にも東京の街をあれこれ撮るそうだ。
 天皇賞の写真は一応彼にも送り、サイトに載せてもらった。
 http://www.galoppfoto.de/database.htm
 「tokyo」とか入れて検索すると去年の秋天とJCも含めて私の撮った写真がヒットする。
 そんな感じで今後もニーズがありそうなのは送る予定なのだけど、改めて来たゾルゲくんからの返事で、競馬以外の写真も含めて彼が長年契約しているという写真エージェントを紹介しようかとあった。こちらです→Caro Fotoagentur

 いやいやこんなプロの集まりに載せられるほどの腕も被写体選眼もないんですけど…(^_^;)
 しかし興味がそそられないかというと嘘になる。私のような素人で、しかもユーロ圏外からの参加でも問題ないか(一応銀行口座はドイツに残してあるが)、ゾルゲくん来日の際にいろいろ話をしてみるつもりだ。結局日本には何の足場もコネもないから、趣味の延長はいまだにドイツ頼りというわけだ。

■ズビも来日。
 外国人騎手に短期免許交付(JRA)
 去年来なかったから日本はもう来ないと思ってた。前の受け入れ先だった森厩舎では専ら地方開催に行かされてたし、2004年の初短期免許のときキーンランドスワンでシルクロードS勝ったりしてたのに、その後結局殆どいいところに乗せてもらえてなかったからね。今回の来日は既に先月GaloppOnline.deで読んで知ってたのだけど、結構意外だった。もちろん私がドイツ滞在中、彼はよく日本語で挨拶してくれたりしてたので、決して日本嫌いになってたわけじゃない。しかしインタビューを読むと英語が通じる香港の方が気に入ってる様子はあるし、12月からはそちらの短期免許を申請中とのこと。当然だと思うよ。海坊主師もいるし(笑) ただうまいこといかなかったら、年明けにまた日本に来る予定。まあそういう位置づけでいいのかなと。
 今回の1か月滞在は森厩舎でなく村山明厩舎というのが前回との違い。となると、やはり狙いはホッコーパドゥシャでの福島記念か?行こうかな福島。これ勝てば、写真は間違いなくドイツで売れる( ̄ー ̄)ニッ

■しかし福島に行くとなれば、三連休の初日で先日の盛岡のように日帰りはちょっともったいない。せめて1泊して何か競馬以外も撮りたい。ゾルゲくんから上記のような話もあるし、写真を撮る目は鍛えたい。
 ただお金ないんだよなぁ。EOS 1D Mark IIとDELLデスクトップと盛岡遠征で秋の遊び予算はほぼ使っちゃったし。ついでに紅葉もタイミング過ぎちゃうし。頑張ってでも福島1泊する撮影スポットはあるのかしらん?

■競馬以外の写真となると、実は昔から人物を撮りたいと思っている。しかしモデルになってくれる人はいないし、肖像権とか何かと気を遣わなけりゃいけないことが多いので、実際にはチャレンジしてない。しかしちょっと前だけどそんな話を知人のアニヲタ黒帯(私は自称アニヲタ3級の茶帯です)にしたら、「もしその気があれば冬コミに連れてってあげますよ。あそこなら撮られるのを目的としたコスプレイヤーがたくさんいますし。」と有難い提案をしてくれた。その時は笑ってそれでお仕舞にしたけど、改めてゾルゲくんの話を考えると、「未来に生きてる日本人を紹介するのもアリかな?」と頭を過る今日この頃。アリ……だよね?
posted by 芝周志 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | その他未分類

2009年10月14日

盛岡競馬場はドイツの競馬場を思い出させてくれた

マイルチャンピオンシップ南部杯を撮りに行ってきました。レース写真はこっちからレース名をクリックして見てください。

http://09races.shibashuji.com/index.html

それでまあ、馬券については相変わらずと…。しかし単勝主義の私にとって、2倍を割ったらよほど思い入れがない限り賭けられないわけで、エスポワールシチーを切ったのは仕方ない。でもサクセスブロッケンがあそこまで千切られるとは思わなかった。エスポ時代の到来か、あるいは単に私の呪いが強すぎたのか。GI8勝目を阻むルドルフの呪いも、やはり9歳ブルーコンコルドといえども容赦なかったというわけで。

そんな競馬の中身はさて置いても(って本末転倒な…)、盛岡競馬場はとてもいい競馬場だった。久しぶりにドイツの競馬場に似た長閑な空気を感じさせてくれた。









東北新幹線で盛岡駅に着き、無料送迎バスに揺られること約30分。街から抜け長閑な景色へと運ばれていくときはどことなくバーデン競馬場のシャトルバスを思い出す。そして山道を登り始めると、グラーフェンベルクの森の中へと向かうデュッセルドルフ競馬場への景色が目に浮かび、パッと開けた正門前の広い駐車場とその後ろに浮かぶスタンドが目に飛び込んできた瞬間には、「おお〜!ここはハノーファーだ!」と心の中で叫んでしまった。スタンドは建てられて比較的新しい印象で、その点の小奇麗さはドイツの競馬場よりニューマーケットの方がイメージに合うかもしれない。もちろんあちらの方が垢抜けているけど、盛岡も地方競馬の泥臭さのようなものは殆ど感じられなかった。コース前の雰囲気はハノーファーを少し手狭にしたような感じで、あちらは低地だけど周りが木々でしっかり覆われていたので、同じく森に囲まれた盛岡は、左回りという点も含めて、ハノーファーが一番似ているかもしれない。山の上の森の中という意味ではデュッセルドルフもそうなのだけど、あそこはコースが三角形だし、コースの起伏もかなりあるので、オーバーラップするようなイメージはない。それよりは映像で見た印象どおりバーデンの方が近いかもしれないけど、やはりハノーファーかな。

1600m戦はかなり奥まったポケットから向正面へ向かって長い直線を進み、最後の直線は緩い登り坂になっているので、かなりフェアに自力勝負できるGIに相応しいいいコースだと思う。パドックはゴール板を過ぎて50mほどのスタンド側脇にあり、いちいちスタンド内を通り抜けずコースへ戻れるのは、撮影メインの自分にとっては非常にありがたい。馬券を買うにしてもスタンド内へすぐに入れるし、パドックとしてもすり鉢状の高低差が十分にあって非常に見やすい。更に埒のスタンド側がコース側より一段高くなっているので、間へプロカメラマンに入られても邪魔にならず、撮影する身としてはこれほど有難い条件はない。

バスか車でしか行かれない立地の悪さは、以前デュッセルドルフ競馬場が破産寸前にまで追い込まれたように、集客の面では難は大きいだろうと思う。しかしピクニック感覚の家族連れも多く、来てしまえばとても過ごしやすい爽やかな競馬場だ。ドイツの競馬場の空気を思い出す意味でも、せめて南部杯のときには是非また来たいと思う。それくらい気に入った盛岡競馬場。

posted by 芝周志 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本競馬

2009年10月12日

「ネレイーデ物語 エピローグ」アップ

9月中に終了させるつもりでいたのに、パソコンが壊れてすっかり予定が狂ってしまいましたが、先週末にDELLのデスクトップが来て漸く使い慣れてきたので、いつまでも保留にしておくわけにもいきませんし、エピローグをアップしました。

ネレイーデ物語 ― エピローグ

ネレイーデの産駒についての話です。ということで、これにて本編終了。長年首元に引っかかってたものがやっと取れた感じです。

とはいえ、エピローグのはしがきがまだなんですよね。アメリカへのサラブレッド接収のことなんかについて調べられる範囲で書こうかと思っているのですが、多少の資料はあるものの、実はまだ殆ど読んでません。ついでに仕事が10月は忙しいもので、なかなか落ち着いて読めないので、書けるのは多分来月になってしまうかと。

にしても、Windows7が出る直前にPCを買い替えなければいけなかったのは、正直最低のタイミングですよね。Vistaをスルーして、Windows7の不具合なんかもある程度クリアしてから新規購入したかったのだけれど、まさかVistaを経由する羽目になるとは…。金銭的にも先日EOS 1D Mark IIを買ったばかりなのでかなり痛い。しかし21.5インチフルHDモニターはさすが鮮やかだし、ブルーレイにも対応させたし、かなりPC環境が上がったのは素直に嬉しい。中古のMark IIも殆ど傷もない新品同様で、今までの30Dに比べてかなりの精度でフォーカスを捉えてくれるし、400mm5.6Fレンズとの相性もよいので、出費したなりに得るものはあったから、まあよいだろうと。馬券はこの秋最低だけど。金銭運が最悪のようです…orz

それにも拘らず明日は盛岡へ日帰り遠征。あそこの砂は優駿の写真なんかでみるとかなり白っぽくて明るく、背景も山でがやがやした感じがないので、以前から一度は撮りに行きたかったのですよ。南部杯のビデオなんか見ると、景色の雰囲気は何となくバーデンに似てるなと感じてるので、結構楽しみ。レースはエスポワールシチーとサクセスブロッケンが人気を分け合うのだろうけど、Youmzainが凱旋門賞2着3連覇なんていう偉業を成し遂げたことだし(笑)、ブルーコンコルドの南部杯4連覇もありなんじゃないかと密かに期待。取り敢えず今の自分は、馬券的には疫病神になっているので、どの馬に悪の手を差し伸べるべきか大いに悩むところですよ。

posted by 芝周志 at 02:06| Comment(0) | TrackBack(0) | その他未分類

2009年09月23日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 4.欧州最強牝馬決戦

4.欧州最強牝馬決戦
(本節に関するご意見、ご質問等は当エントリーのコメント欄にてお願いします。)

本節より新規書き下ろし。

ナチ時代の競馬統括組織OBV

1869年に結成れたホッペガルテン競馬場の運営協会ウニオン・クラブ(Union-Klub)は、長年ドイツ全体の統括団体としての機能も兼ねていた。だが分権性の根強いドイツでこの状況は、他地域の競馬協会にとっては不満のタネであり、第一次大戦後間もない1920年、各協会同権の上位組織としての「サラブレッド生産及び競馬のための最高機関」(Oberste Behörde für Vollblutzucht und Rennen・OBV)が設置される。即ちヴァイマール期のOBVは規則や血統管理の上で統括的役割を果たしていたが、組織としては議会民主主義的形態を採っていた。だが1933年にナチ政権誕生後、OBVはプロイセン内務相ゲーリンクが指揮する馬産とスポーツ振興政策の下に組み入れられ、中央集権化される。もっとも、直接の管轄省庁はプロイセン農務省になり、指導部トップにはナチ党員が入り込んだものの、実質運営にはヴァイマール時代からの馬産関係者や農務官僚が残っていた。当時反ナチとして左翼グループは徹底的な弾圧を受けていたが、軍部や教会ら伝統的な保守陣営はナチとの折り合いを付けながらも一線を画し、その強い影響力ゆえに完全なるナチ化を逃れていた。この点、ドイツ史研究の上で殆ど注目されていないものの、大土地所有者や大手資本家層が主要メンバーを占めていた競馬サークルも、ナチイデオロギーの浸透が少ないグループの一つであった。所謂フランスからの馬略奪に関してもOBVの運営部は距離を置き、従来の関係に基づいたフランス馬産界との関係を維持できたのも、このサークルにおけるナチの影響力の弱さを示しているといえるだろう。OBVは1947年に「サラブレッド生産及び競馬のための管理委員会」(Direktorium für Vollblutzucht und Rennen e.V.・DVR)が設立されるまで機能を維持し、サラブレッドに関する様々な戦後処理にも権限を持って対応した。

ヒトラーと競馬

ヒトラー自身が競馬に係わっていたか否かについては興味が持たれるところである。ナチ上級幹部では上記のとおりゲーリンクが直接競馬に影響力を持つ地位にあり、ネレイーデのダービーに臨席していた他にも、幾度となく競馬場を訪れていた写真等の記録が少なからず残されている。また宣伝相ゲッベルスの写真も複数あり、彼らは結構好んで競馬場に来ていた様子だ。またナチではないが、ヴァイマール時代から大統領ヒンデンブルクも頻繁にホッペガルテンに足を運んでおり、副首相パーペン(彼も非ナチの保守政治家)は自らがアマチュア騎手であったため、競馬場常連の顔であった。このように党や国の要人たちが頻繁に姿を見せていることから考えるならば、ヒトラー自身も競馬に関心があれば、或いはプロパガンダのためであれ、ダービーや帝国大賞の際、競馬場に現れていてもよいはずである。というより、競馬のステイタスを考えれば、一度も姿を現さない方が不自然だ。しかし1933年から休刊になる1940年までの「ドイツ競馬アルバム年鑑」を見た限り、彼が競馬場に訪れた形跡はない。1936年度版と39-40年度合併号に一応ヒトラーが写っている写真が掲載されているのだが、前者は目次直後の一面写真でありながら、被写体の彼は何かを視察しているような横顔で写っているだけで、競馬場と特定できる背景がない。実際に訪れていたなら、それと分かるように載せるだろう。また後者は、軍馬生産に関する記事の中で騎馬隊行進式に写っているものや、軍用牧場か厩舎で重種馬にえさを与えているようなシーンで、やはり競馬やサラブレッド生産に直結するものではない。いくら競馬界がナチ政権と一線を画していたとはいえ、総統閣下が競馬場を訪れておきながら写真を載せない、また記事にもしないということはあり得ない。つまりヒトラー自身は競馬への関心は特になく、直接的影響力も揮っていなかったと考えるのが妥当だろう。

クリスティアン・ヴェーバー(Christian Weber)

彼は1883年バイエルンの小村に生まれ、ドイツ語ウィキペディアによると、国民学校(小学校)を出たあと農場の牧童をしていたことで馬に触れるようになる。兵役や第一次大戦への従軍を経た後、ミュンヘンで馬貸しやガソリンスタンド経営、またジーメン著『ハンブルク競馬場150年史』によれば、酒場の従業員や犬の美容サロン、自転車修理工等もやっていたようで、基本的に不安定身分の低所得層に属す人物であったといえる。1920年にヒトラーと出会いナチに入党、彼のボディーガードとして"Du"(お前)で呼び合う関係であったことは本編でも触れたとおりだ。しかしレームのように粛清されることなく終戦まで党内に残っていた割に、政治的側面で彼の名が表立たないのは、手にした地位と権力を専ら趣味の競馬に注いでいたからであろう。ブラウネス・バント創設はヴェーバーの存在なしにはありえなかった。フランスからの略奪に関しては、それが非公式であるが故に、その実態を示す資料の発見が難しい。しかし戦後の文献を読む限り、ヴェーバーの関与は既定となっている。1936年にヴェーバーがミュンヘン市から金を引き出して開設したイザーラント牧場に関し、1942年に早々と書かれた博士論文(獣医学)があるが、それに掲載されている牧場繁殖馬が不自然なほどフランス産馬で固められていることからも(もちろん略奪とは書いていない)、ヴェーバーの関与はある程度傍証できるだろう。恐らくイザーラント牧場やファリスが繁養されていたアルテフェルト牧場のアーカイヴを調べれば色々と実態が分かるのだと思う。だが残念ながら、これまで馬略奪に関し本格的に取り組んだ研究は(恐らく)ない。

尚、ナチに関してはどうしても否定的解釈になってしまう面が否めず、戦後の文献でもヴェーバーは専ら教養のない小悪のイメージになりがちだ。実際彼が私利私欲のために権力を濫用していた面は否定できないであろう。だが彼の人物像から逆に想像できるのは、日本の競馬場でも普通によくいる競馬オヤジのような姿である。偶々早い段階でまだゴロツキ集団のようだったナチ党の仲間になり、指導部に入る力も、ヒトラーを脅かすような器もなく、ただ古参という立場だけで自身の能力以上にはわがままの利く権力を得てしまったがために、羽目を外してしまったオッサン、そんなイメージだ。しかしそんなオヤジのわがままが、ネレイーデとコリーダの勝負をお膳立てしたことは確かであり、ナチ時代の競馬を盛り上げた要因の一つになったことは、(負の側面を無視することなく)評価しておく必要はあるだろう。

posted by 芝周志 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語

2009年09月10日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 3.空前の電撃ダービー

3.空前の電撃ダービー
(本節に関するご意見、ご質問等は当エントリーのコメント欄にてお願いします。)

本節は旧ブログ「Nereide(3)」の後半、主にドイツ・ダービーについての書き直しと、ダービー自体の歴史的位置づけについて加筆。その加筆部分との関連から、このはしがきではドイツ競馬の黎明期とウニオン・レネンについて、もう少し歴史的に掘り下げてみたい。

1822年の「ドイツ」

「ドイツ競馬発祥の年」とされる1822年に「ドイツ」と称する国家領域はなかった。確かにナポレオンからの解放戦争後、1815年ウィーン会議によって「ドイツ連邦」という組織体は生まれているが、これは計39の独立主権国家及び自由都市からなる連合体で、現在のEUと同じかそれ以上に緩い紐帯に過ぎない。しかもその領域は旧神聖ローマ帝国の領域に属す部分に限定されていたため、連邦の2大強国オーストリアとプロイセンについては、それぞれ自国の半分、乃至それ以上が連邦に属していない。一方連邦内国家の君主も兼ねるデンマーク、オランダ国王、及びハノーファーと同君連合のイギリス国王が加盟しているなど、ドイツ連邦はおよそ国民国家の基盤として看做せる集合体ではなかった。但し一方で解放戦争を通じ、上級貴族の帝国臣民意識だけでなく、非貴族における「ドイツ国民(ネイション)」としてのナショナル・アイデンティティが明確に生まれ始めたのもこの時期である。即ちドイツ競馬黎明期における「ドイツ」とは、制度上は実質支配力を持たない地名に過ぎないが、枠組みが曖昧ながらも人々の心に帰属意識を与え始めた概念だったといえる。以下の話においても、「ドイツ」という語が暗黙の前提のように使われながら(それは19世紀始の原典著者においても同様である)、その想定範囲や実際の活動領域が様々なレベルで伸縮していることを念頭に置いておいてもらいたい。

ゴットリープ・フォン・ビール(Gottlieb von Biel)と最初の競馬開催

ビールは、1822年バート・ドーベランでの最初のサラブレッド競馬を主催した人物である。1792年生。ドイツにおける競馬はこの人物個人の情熱によって始まったと言っても過言ではない。ビール家は父の代に男爵の称号を得た新興貴族で、後にゴットリープが牧場を開くメクレンブルクの土地も、父の代に得たものでる。彼は1813~14年の解放戦争に従軍し、英国軍との混成部隊に所属。ここで係わった英国馬の優秀さに心酔し、戦後早速サラブレッド牧場を開業することになる。メクレンブルク大公国は、元々馬産地として有名で、メクレンブルク馬はその優秀さが好まれドイツ各地へ輸出されていた。しかし18世紀後半になると、プロイセン、ハノーファー等近隣国の馬産レベルが向上して輸出が頭打ちになり、それと同時に農業技術の進歩で穀物生産量が増大、英国への輸出をメインに国内財政が潤い始めたため、牧場地は減らされ農地化が進められた。またメクレンブルク馬はナポレオン統治時代に多く戦場へ駆り出されたため、更にその数は減少し、解放戦争後には既にかつての活況は失われていた。だが1815年、英国が自国内で向上してきた農業生産力を保護するため、関税引き上げによる輸入制限を施行。そのためメクレンブルク経済は突如窮地に立たされたのである。ビールのサラブレッド牧場開業はまさにこのタイミングであった。もちろんサラブレッド生産がいきなり経済危機を救えたわけではないが、馬産地としての誇りをメクレンブルク国民に再起させる効果は十分にあった。ビール自身がその優秀さを積極的に説いて回ったこともあり、英国サラブレッドは追い風に乗るように導入され、国内に多くの「英国マニア」を生み出した。メクレンブルクが穀物貿易によって、英国との通商関係を既に築いていた意味も大きいだろう。このような帰結として、ドイツ地域で最初の競馬がメクレンブルクで開催されたのは必然であった。またその機運が高まった1822年、大公国皇太子パウル・フリードリヒがプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘アレクサンドリーネと結婚し、バルト海沿いのリゾート地ハイリゲンダムを競馬開催直前に訪問したことも幸運となった。開催地バート・ドーベランはそのハイリゲンダムの隣に位置する。ビールはこの機にPRマネージャーとして多くの賛同者を集め、何よりこの皇太子夫妻を支援者として得たことにより、この競馬開催を最初から権威ある行事へと高めることに成功した。特に皇太子妃アレクサンドリーネが競馬愛好者となったことで、バート・ドーベラン競馬の確立と同時に、プロイセンへの競馬拡大にも一気に拍車をかけたのである。

トラケーネン牧場長ブルクスドルフのサラブレッド批判と論争

このようなサラブレッド生産と競馬の広がりに対し1827年、プロイセン王立トラケーネン牧場長ブルクスドルフ(Wilhelm von Burgsdorf)が批判論文を発表した(因みにトラケーネン牧場はプロイセン東端に位置し、ドイツ連邦の範囲外。現在はロシア領である。)。初の競馬開催から僅か5年後である。如何に急速にサラブレッド人気が高まっていたか、この一件からも窺い知れるだろう。しかも王立トラケーネン牧場の場長とはこの時代、軍事強国プロイセンの補給基地最高責任者と言ってもよい人物だ。当時の馬産とは軍馬の質に係る重要テーマであり、競馬もまた単なる娯楽の枠に収まる話ではなかったのだ。彼の論旨は、遊びとしての競走によって選別されたサラブレッドは、軍馬、馬車馬等の使役に耐える馬作りには適さず、馬の良化に資する価値はない、それゆえサラブレッド生産の拡大はドイツの馬産にとってマイナスである、というものである。これに対し真っ向から反論したのがビールだった。彼は1830年、『貴種馬についての緒言』"Einiges über edle Pferde"と題した358ページに渡る反論書を出版、英国ではサラブレッドが他の使役種の改良にどれだけ効果を現しているかを示し、ブルクスドルフの批判に一つ一つ反駁した。またこれを機に他のサラブレッド生産者も交じって、1830年代を通じ激しい論争が展開されている。その詳細については私自身が原典未読のため紹介できないが、最終的にブルクスドルフ自らトラケナー種の改良にサラブレッド種牡馬を導入したことで、ビール側の勝利として決着がつく。但しビール自身は病を患う中で大著を執筆した影響もあったのか、その決着を見ぬまま、出版翌年の1831年に若くして人生を閉じている。しかし彼の意思は兄ヴィルヘルム(Wilhelm von Biel)によって引き継がれた。英国人の妻を持つヴィルヘルムは、特にタタザールからのサラブレッド購入においてエージェント的役割を演じて多くの馬を大陸に輸入し、ドイツ地域のサラブレッド生産拡大に貢献している。

ウニオン・レネン(Union-Rennen)の創設

上記論争が展開されながらも、サラブレッド競馬の拡大にブレーキがかかっていたわけではない。ブルクスドルフが批判する傍らで、1828年にはベルリンで競馬協会が創設され、その翌年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自ら名誉総裁に就いている。生産地域もドイツ地域内各国に拡大し、特にプロイセン領シュレージエン(現ポーランド領)は19世紀のサラブレッド馬産をリードすることになる。またハプスブルク帝国ハンガリーでも1826年に最初の公式サラブレッド競馬が開催されている(尤も開催地は現スロヴァキア首都ブラチスラヴァ)。ハンガリー内最初のサラブレッド生産牧場も1825年に創設されており、1830年には大陸生産サラブレッドが各地揃い始めていた。そこで創案されたのが、3歳馬限定の能力検定競走、ウニオン・レネンである。この創案者もまたビール(ゴットリープ、ヴィルヘルム兄弟連署)である。レース登録告知書のタイトルは「ハンガリー、オーストリア、プロイセン、メクレンブルク、ホルシュタイン、及び大陸のためのウニオン・レネン」であり、出走資格は「1831年に大陸で生産された馬」となっている。一言で置き換えるなら「英国以外の生産馬」ということになる。ウニオン・レネンは「ドイツ最初のクラシックレース」と呼ばれるべきレースであるが、この告知文全文を通しても「ドイツ」という文字は一つもない。「ネレイーデ物語」本編でも触れているが、ウニオン・レネンが何故「ダービー」と名付けられなかったかというのは、英国に「ダービー」が存在するのに対し、「大陸ダービー」とでも呼ばない限りレース実態に妥当する表現がなかったからであり、何より大陸各国を総称できるウニオン(同盟・連合)こそが相応しいと考えられたからであろう。1834年に最初の歴史を刻んだウニオン・レネンは、19世紀半ばまでドイツ地域各国の優秀な3歳馬が集う重要なレースとなった。しかし本編でも触れた通り、1867年オーストリア・ダービー、1869年北ドイツ・ダービーの創設、1871年プロイセン中心のドイツ統一とオーストリア分離により大ドイツ的基盤が失われ、ウニオンの地位はこの新設2レースとの間で相対化されてしまった。それでも20世紀に入るまでは同等の地位が維持され、北ドイツ・ダービー(1889年よりドイツ・ダービー)が創設4年目にオーストリア・ハンガリー生産馬にも開放してからは、ウニオン→オーストリア→ドイツを短期間で挑戦する米国三冠のような様相を見せていた。だが20世紀に入った頃からドイツ・ダービーの地位がより高まり、また第一次大戦敗北後のハプスブルク帝国崩壊により馬産地ハンガリーを失ったオーストリア・ダービーが一気に衰退したことによって、ウニオン・レネンはドイツ・ダービーのトライアルレースと化していったのである。尤もウニオンの持つ伝統は決して否定されるものではなく、実態はダービー・トライアルとなっても、勝者に対するリスペクトは現在も失われていないということは付け加えておきたい。

posted by 芝周志 at 04:35| Comment(1) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語