2010年11月05日

「ドイツ競馬史」を書こうとすると…

「ドイツ競馬史でも書きませんか?」

 有難くかつ興味深い話だ。書けるものなら是非書きたいという気持ちではある。だがどれくらいの原稿枚数で、いつまでに書くかというのはまるで決まっていない。ただ「ドイツ競馬史」という大枠があるだけである。一体どの程度の量で、どんな構成で書くべきか、今のところ殆ど見当が付いていない。しかし締め切りが決まっていないからといってだらっとしてると、多分永久にまとまらない気がするので、だらっとなりに思い浮かぶ観点をいくつか考えてみよう。

 まずご依頼主が密かにご所望されていると思われる血統史というのは、私には書けない。単純にその力量がなく、とりわけ配合史という観点になってはまったく分からないし、そもそも私が書く必要性もない。血統に詳しく拘っている方が血統表と生産者名を繋ぎ合せながら、飽くまで配合としての馬作りの思想と実践を紐解いていただければよいのだ。それでも血を繋いでいく馬産という意味で、独自血統を育てる牧場史という観点なら、私なりのアプローチは多少出来るかと思う。

 ということで一つ考えられる構成方法が、いくつかの伝統ある著名牧場の歴史を並列的に描くものである。プロイセン王立のグラディッツ牧場、現存する個人牧場最古参のシュレンダーハーン牧場、名繁殖牝馬Festaを英国から輸入して20世紀ドイツ馬産の大きな礎を築いたヴァーンフリート牧場、Nereideを産んだエーレンホフ牧場、その他レットゲンやツォッペンブロイヒ、戦後に開業して大きくなったフェーアホフやイットリンゲン等、それぞれの牧場の歴史を描くことで、ドイツの馬産史というものが複合的に見えてくるはずだ。但しこの構成方法だと、時間の流れを行ったり来たりすることになるため、大きな流れでの発展史としては描きにくい。同じ意味で名馬列伝も同様の困難を伴う。

 競馬興行の歴史という観点では、それなりに1本の流れを作り出せる可能性はある。だがドイツの場合、案外それも一筋縄ではいかないところがある。なぜならドイツ競馬の黎明期にドイツという国家がなかったのだから。現代のドイツという括りではオーストリアは除外されるが、19世紀ではハプスブルク帝国は「ドイツ」という曖昧な概念の重要な構成要素で、そこにはドイツ語圏でないハンガリーも含まれる。またバーデンやバイエルンといった南西ドイツの中規模国家では、必ずしもプロイセンを中心とした北東ドイツとは歩を合わせた発展をしていないし、少なくとも1871年のドイツ第二帝国成立までは複数の流れを捉える視点が必要だ。また第一次大戦終了までオーストリア・ハンガリーは、なおも大枠としてのドイツ競馬の一要素として捉えておく必要はあると思う。

 むしろこうした複眼的観点によってドイツの馬産と競馬の歴史を捉えることで、競馬を通じたドイツ史が描かれることになるのではないかと考えている。だがそれはなかなかに大胆な試みだ。一端の文化史を描くことになるのだから。ただそうなると、そもそもこのような文章の読者層の期待に応えてるのかどうかが怪しくなる。少なくとも直接馬に携わる人たちにとってはあまり興味のない話になるのではないかと。所詮私は元々が歴史屋崩れだから、結局のところ書斎派競馬層向けにしか書けないのだろう。

 しかし上にざっくり書いたものは、どう考えても1冊の本レベルの内容量になってしまう。共著としての1章とか、実は原稿用紙10枚程度のコラムでしたってことになれば、当然こんな大仰な話は出来ないわけで、その場合の「ドイツ競馬史」は、何か切り口を一つ設けて書くような感じになるのだろう。面白い文章になるかは、その切り口次第。しかし妙にキャッチーな切り口を設けて、ドイツ競馬というものに中途半端な色を付けてしまいたくはない。これまた書き始めるまでが難しくなりそうだ。

 まあ何にせよ、きっちりした内容のものを書こうと思ったら、まずは積読状態の我が家の文献類を読み込んでいかないといけない。しかし当たり前の話だけど、日本語で本を読むよりはるかに時間がかかるわけで、実際の執筆までかなり長い道程になるだろう。まずは原稿用紙50枚程度の時系列的な薄い歴史を叩き台として書いてみるのも手ではありが、はてさて、この冬の間に出来るかな?どうかな……?
posted by 芝周志 at 00:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感

2010年06月18日

オフ会、新たな在り方

 ちょっと殿下。のマネして記事冒頭カバー風に1枚(笑)



 先日府中競馬場で競馬無視して午前中場内をぶらぶらし、引退馬馬房脇の花壇にて。EF200mm/F2.8に1.4倍エクステンダーでAF対応ギリギリの1.5メートルくらい離れたポジションから狙ってみたら、なかなか細部までいい感じに撮れた。蝶とか動きが不規則な昆虫には根気が要るだろうが、夏は虫撮影というのも意外と面白いかも。

 さてここ2週の日曜府中では、競馬終了後Twitter競馬クラスタとの飲み会が続いた。その2回とも何だか異常に盛り上がったのだが、単に盛り上がったというだけならわざわざブログで記事にするものでもない。話した話題もあちこちに飛びまくり、まとめなんてものもあったもんじゃなかった。しかしこの謂わば「オフ会」は、これまでの「オフ会」の認識を覆す、それが言い過ぎだとしても新たな在り方を生み出したと言っていいかもしれない。

 まず安田記念の日だ。その日はそもそも「オフ会」というものが計画されていたわけではない。しかしG1日ということもあり、Twitterのタイムライン(TL)上からは、日中から多くのフォロワーさんたちが府中競馬場にやって来ている様子が伝わってきていた。レースの間に何人かは顔合わせしている気配が見え、ゴールそばの埒にしがみ付いていた私にも、ゴールデンウィークのオフ会で顔見知りになったフォロワーさんがちらほら声を掛けに来てくれたりと、Twitterならではの交流はあった。だが極めつけは最終レース後。一部フォロワーさんから「安田伊佐衛門像前にいるよ」とのツイートが入ると、私も含めダラダラとそこに人が集まり始める。まさにダラダラ、グダグダとだ。もちろんそこで何を予定していたわけでもない。私はまだ会ってなかった人に軽く挨拶くらいのつもりだったのだが、結局10人くらいで30分くらいその場にたむろった末に、「ちょっと飲みに行きましょう。」というノリで8人が飲み屋へ移動。そして終電ギリギリまで喋りたい放題で皆盛り上がったわけである。

 短いネットコミュニケーション社会の歴史では、「オフ会」とはあるコミュニティ上で知り合ったもの同士が「申し合わせて」集うのが基本であった。なぜならお互い顔を知らないので、きちんと計画的に時間と場所を決めておかなければ、お互いが分からないからである。しかし今回はそんな「申し合わせ」などなく、ただ一人がツイートを投じただけで場当たり的にダラッと集まり、そのまま「オフ会」が成立してしまったのだ。もちろんお互いフォロー関係にあるという多少なり信頼がコミュニケーション上積まれているとはいえ、これは携帯(あるいはiPhone)とTwitterによって成された新たな「オフ会」の姿だったといえる。

 そしエプソムCの日。これは馬場開放というイベントがあったゆえに、安田のオフやその後のTL上でも再度集うことがある程度申し合わせされていた。だからそれ自体は従来の形に戻った感じではある。だがこのときに新たに起こった形とは、「オフ会」の実況中継である。iPhoneで映像や音声を拾い、Ustreamでライブ放送してしまったのだ。これも前もってそうしようと話し合って機材を用意したわけではない。馬場開放の際、「第13レース」と称して若いフォロワーさんたちで芝の上を競走したのを、まさしくその場のノリで中継してしまったのである。これもiPhoneとUstreamというアイテムとサービスが簡単に引き起こした技である。しかもそれをTwitterで告知し、その場にいない各地のフォロワーたちが中継を見て、リアルタイムで反応していく。現場にいる者はその反応をリアルタイムで確認でき、それに合わせてまた反応をする。

 「オフ会は現場だけじゃない!引きこもり部屋でも起こってるんだ!」

というわけである(笑) 中継は飲み会の場でも継続され、このグダグダ中継は瞬間最大で50人以上が聞いていたという。他に見るもんないのかよ!とツッコミたくもなるが、しかしまあそれだけの人がTwitterで自ら反応しながらこの「オフ会」に参加していたわけだ。つくづく時代は変わったと感じた瞬間だった。

 その後みな帰宅してから一部がさらにスカイプで音声チャットを始め、それをまたUstreamで流すという試みをしていた。同じ「時間」と同じ「場所」を共有する「オフ会」から、「場所」の価値が消えるとまでは言わないが相対的に軽くはなったなと。

 スカイプでの音声チャットには昨晩私も参加し(ストリーミングはなし)、関東圏でない人たちとも声を交わした。もっとも馬場開放のときのストリーミングを録画したものをあとから見て、時々聞こえる自分の声のキモさにえらく萎えたので、スカイプ参加は少し躊躇していたのだけど、「競馬擬人化クラスタ」という私にとっては未知の競馬世界を持っている方々も知ることが出来、結構楽しめた。とはいえ、水曜の夜に明け方まで話続けたのはちとやり過ぎたが…(笑)

 宝塚記念のときには関西でもオフ会のライブ中継が試みられる予定だ。そのときには中継を聞きながらの参加を試してみたいと思っている。

posted by 芝周志 at 00:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感

2009年11月25日

スマイルスキャン考

行き詰まりを見せている当ブログで遂にはてブの延長戦をやってしまおうかなと。
(ま、ちょっと議論のピークは過ぎちゃったっぽいですが)

以下私がコメントしたはてブページを、ブコメした順に時系列でリンク。

1.はてなブックマーク - 分野別地域貢献活動 | オムロン
2.はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
3.はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
4.はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
5.はてなブックマーク - スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!

 はてブ内議論の発端は2の元記事になるが、そこでのブクマに貼られたリンクから、スマイルスキャン開発のきっかけが盲学校の感情教育と知り、その話の大元と思われる1の元記事にまずブコメする。しかしあまりに注目されないので2にもブコメし、メタブまで付き合った次第(5は当記事へのトラバ用)。即ち私自身がこのネタに食いついたのは、2の元記事内容よりスマイルスキャンの開発のきっかけが引っかかったからである。

 しかしそれについては、一旦脇へ置こう。このスマイルスキャンを巡る議論は、当然人それぞれの捉える視点によって評価が変わるわけで、私としては以下4つの論点に分けて愚考し、その中で改めて私の見解も表してみたい。

◆純技術的視点
 科学技術自体には罪はなく、技術の運用方法にその責は問われるべきという意味で、スマイルスキャンが持つ技術そのものにまず視線を向ける必要があるだろう。

この技術を自己フィードバックすることができるならば、ロボットが自分で判断して、表情を作ることができるかもしれません。3D映像でなら、「AIが感情表現として表情を作る」事も可能かも知れません。
(中略)
技術というのは、一つ一つ見れば本当に馬鹿馬鹿しいようなネタも沢山あります。
でも、その組み合わせや応用次第で、どこまでも世界を広げることが出来ます。

スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!


 torin氏のこの見解に全く異論はない。複雑なコマンド指示を必要としないロボットとの対面のコミュニケーションが出来れば、様々な利便性を見いだせるだろうし、アトムのような夢もある。またスマイルスキャン技術と類似の製品では、カメラの笑顔認識機能が挙げられるだろう。私のようなアマチュア写真家だと「笑顔のシャッターチャンスも自分で捕らえてこそ本望」となるが、それを誰に対しても要求する気は毛頭なく、手軽に子供の笑顔を写したいと思っているお母さんなどには、とても便利な機能だと思う。それゆえ笑顔を認識するという技術そのものが否定されるべきとは全く思わないし、精度を高める開発が大いに進んでくれていいと思う。

 但し、技術は運用方法によって負の側面を現わし得ることも然り。在り来たりな例だが、ダイナマイトは土木事業に欠かせない道具であると同時に、人を殺す武器にもなる。スマイルスキャンで人を殺せるとは考えないが、負の作用、あるいは良しと思われてた効果に負の側面が付随している可能性を意識することは、忘れてはいけないのではないだろうか。

◆娯楽製品としての運用
 スマイルスキャンから最初に連想したのが、実はカラオケの歌唱力判定機能だった。最近は消費カロリーを表示するものが多いようだが、私が8年前に渡独した前は(注:昨年2月に帰国してます。一見様のため念のため)、結構当たり前のようにあった。歌唱力判定機能では、あからさまに音程を外したり、小声でぼそぼそ歌っていれば点数が低いのは当然。まずは歌そのものに至っていないのだから(この場合、気持ちよく歌えりゃそれでいいというのは別の話)。しかし歌としてのバランスが取れた中で敢えて一拍ずらしてみたり、声量に強弱をつけてみるのは歌いこなしの範囲であり、それが歌唱力判定機能の基準から逸れて高得点を出せなかったとしても、下手だとは見做せないだろう。レコード大賞の最優秀歌唱賞が歌唱力測定器で決められてたら興醒めもいいところである。しかし恐らく大抵の人はそれを分かった上で、遊びとしてあの機能を面白がっていたはずだ。これは一過性の娯楽に過ぎないわけである。

 それと同様に、スマイルスキャンが遊びの道具として使われたとした場合、私はあまり抵抗を感じない。各々が笑顔を作って、その点数を見てキャッキャウフフするのは一向に構わない。その限りでは一過性の娯楽に過ぎないからだ。しかし歌唱力と違って、笑顔は日常的な個人の個性により密着しているものだから、点数付けが人物評価に結び付く可能性もありえる。場合によってはいじめの原因になりかねないという点で、「負の側面」を意識しておく必要はあるかと思う。

◆盲学校での感情教育としての運用―開発のきっかけ
 さて、私が最も引っかかった論点である。一過性の娯楽と違い、教育という重要な課題をもった実用的運用であるから、その在り方にもより慎重であって然るべきだ。
 オムロンによる1の元記事を見てみよう。

鍼灸師を目指して盲学校で学ぶ生徒にとって、笑顔をはじめとした「表情づくり」はこれまで大きな課題のひとつになっていました。鍼灸師も接客業のひとつであり、お客様とのコミュニケーションにおける“笑顔”が大切ですが、生まれつき全盲の生徒は自分の笑顔を知りません。
(中略)
和歌山盲学校では、スマイルスキャンを生徒たちへの感情教育に役立てるだけでなく、職員の日頃の“笑顔チェック”にも活用して、明るい教育現場づくりに役立てていただく予定です。

分野別地域貢献活動 | オムロン


 単にこれだけ読めば一見いい話である。視覚障害者が鍼灸師として接客に臨むとき、客に安心と好感を持ってもらうために、笑顔が重要だという考えは確かに認める。何故なら、恐らく客の大多数が、目が見える者たちだからだ。客の立場に立ち、客の満足感が何かを知ることが接客業として基本なのは確かだろう。それゆえ、接客業に就く視覚障害者が笑顔を覚えようという意思そのものは私も否定できないし、否定する気はない。だがしかし、これってある意味絶望的なほど悲しい努力だとは思わないだろうか?なぜなら、彼らには自分が作った笑顔が相手にどう映っているか、そして相手がどんな笑顔を返してくれているのか見えないのだから。

 目が見える者同士は、見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識し、そこにコミュニケーション上の意味を見出している。互いが同じ条件にあるからこそ機能しているコミュニケーション手段なのである。マジョリティである目が見える者たちは、日常において何の疑問も持たずに笑顔をコミュニケーション手段として用いているのである。そう、何の疑問も持たずに。しかし視覚障害者には見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識することはできない。見える者が何の疑問も持たずに返した笑顔を、彼らは認識することができないのだよ。今このブログ記事を目で読んでくれている方々、私も含め、私たちの笑顔は彼らには見えないのだ。即ち何の疑問も持っていなかった私たちの見た目の表情としての笑顔は、この瞬間コミュニケーション手段として破綻しているのである。それも目が見える私たちの方がお手上げだ、という意味で。それにもかかわらず、視覚障害者の人たちは、私たち目が見える者に合わせて、コミュニケーション手段としては既に片手落ちとなった笑顔を作ってくれるのである。私はこのことに、感謝の気持ちと同時に、どうしようもないほどの申し訳なさを覚えるのである。私はこれまでに、街で手助けされた視覚障害者の人が笑顔で礼を言っている姿を何度も見ている。今まで全く疑問を持っていなかったのだが、恐らく彼らはみな盲学校で笑顔を作る訓練を受けてきたのだろう。マジョリティである目が見える者たちの中で生きていくために。誠に頭が下がる思いでいっぱいだ。

 そこにスマイルスキャンである。歌唱力測定器なら、音程を外しまくれば低得点になるだろう。それは歌として成り立っていないからだ。そしてスマイルスキャンなら、口をへの字に曲げれば低得点になるはずだ。何故ならそれは笑顔として成立していないからだ。でも、口の両端を少し上に上げれば、たとえスマイルスキャンが60点しか出さなかったとしても笑顔である。それでいいではないか。目が見える者たちのために、自分たちでは決して知ることのできない笑顔を作ってくれただけで、既に100点満点なのである。それ以上の高得点を望むことは、マジョリティである見える者たちの傲慢以外何ものでもないんじゃないだろうか。

 そもそも視覚障害者同士は、笑顔を用いずにどうやって自分たちの好意の気持ちを伝え合っているのだろうか?具体的には知らないが、素人発想のレベルなら、「声」がその一つに挙げられるだろう。声なら見える者、見えない者の間でも共通のコミュニケーションツールとして使える。健常者と呼ばれる我々マジョリティは、自分たちにとって便利なように生活空間を作って楽をしている。しかし視覚障害者だけでなく、その他様々な障害を持った人たちが、健常者が胡坐をかいている空間で人一倍の手間や労苦を被っている。マジョリティの中でマイノリティが生きていく以上、いくら理想論を言ったところで、マイノリティがマジョリティに合わせていくのは避けがたい現実だ。しかしそこで、彼らが自立するために自分たちには知覚できない表情まで訓練するのが当然だ、とするのなら、それを最低限頭で理解しているマジョリティは、彼らのために少しでも気配りをするのも当然じゃないだろうか。機械で数値化してまでマジョリティを満足させる笑顔を訓練させることより、たとえハリ治療の客としてでも、彼らと共通にこなせる「声」をコミュニケーション手段のメインとすべき意識は、持つべきなんじゃないだろうか。少なくとも盲学校で笑顔作りが教育必須とされているなら、健常者の学校で様々な障害者に合わせたコミュニケーションを意識すべき教育もされるべきだろう。そのような意識も抜きに、スマイルスキャンを盲学校にとって良い教育機材だということは、自分の環境に胡坐をかいたマジョリティによるマイノリティの抑圧でしかないと私は考え、その意味においてこの製品は「最低の発明だ」と見做すところである。

◆職場の笑顔訓練としての運用
 本来はてブ上ではこちらがメインテーマだったのだが、私にとってはおまけのようなものなので、長くなってしまったし、おまけのように書く。

 接客を主とした業種では、目が見える者同士である以上、笑顔は重要な要素になるだろう。しかし「無愛想な接客ワールドカップ」をやれば、サッカーのナショナルチーム並に毎回決勝リーグに上がれるくらいの強豪ドイツで長年暮らしてた私からすれば、日本のどこでも笑顔の接客はもう十分すぎるくらいで、なんだかなぁって気持ちが殆どだ。ただ笑顔をある程度訓練することが無意味だとは思わない。この場合コミュニケーション手段として成り立っているからだ。恐らく芸能人などはみな少なからず鏡に向かって練習してると思うし、その笑顔をテレビや写真で見て好感をもったりしているのも事実である。

 しかしスマイルスキャンの場合、100段階の点数化というのが個人的には好きになれない。笑顔には個々人によって当然違いがあり、場面によっても笑い方は異なる。つまり0から100という直線的な数列で表すには不都合なんじゃないかと思うのである。取り敢えず笑顔と認識されるのが60点からだとしたら、それ以上は数値化する必要はなく、あとは職場の仲間同士で仕事振りを見合い、自分らしいよい笑顔を磨いていけばいいんじゃないだろうか。仮に私がスマイルスキャンを導入した職場に勤めていたら、良心的兵役拒否じゃないが、思想信条における理由で、謹んで測定を辞退させてもらう。
posted by 芝周志 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感