2009年11月25日

スマイルスキャン考

行き詰まりを見せている当ブログで遂にはてブの延長戦をやってしまおうかなと。
(ま、ちょっと議論のピークは過ぎちゃったっぽいですが)

以下私がコメントしたはてブページを、ブコメした順に時系列でリンク。

1.はてなブックマーク - 分野別地域貢献活動 | オムロン
2.はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
3.はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
4.はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - 最低の発明であることが理解できない日本 - 非国民通信
5.はてなブックマーク - スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!

 はてブ内議論の発端は2の元記事になるが、そこでのブクマに貼られたリンクから、スマイルスキャン開発のきっかけが盲学校の感情教育と知り、その話の大元と思われる1の元記事にまずブコメする。しかしあまりに注目されないので2にもブコメし、メタブまで付き合った次第(5は当記事へのトラバ用)。即ち私自身がこのネタに食いついたのは、2の元記事内容よりスマイルスキャンの開発のきっかけが引っかかったからである。

 しかしそれについては、一旦脇へ置こう。このスマイルスキャンを巡る議論は、当然人それぞれの捉える視点によって評価が変わるわけで、私としては以下4つの論点に分けて愚考し、その中で改めて私の見解も表してみたい。

◆純技術的視点
 科学技術自体には罪はなく、技術の運用方法にその責は問われるべきという意味で、スマイルスキャンが持つ技術そのものにまず視線を向ける必要があるだろう。

この技術を自己フィードバックすることができるならば、ロボットが自分で判断して、表情を作ることができるかもしれません。3D映像でなら、「AIが感情表現として表情を作る」事も可能かも知れません。
(中略)
技術というのは、一つ一つ見れば本当に馬鹿馬鹿しいようなネタも沢山あります。
でも、その組み合わせや応用次第で、どこまでも世界を広げることが出来ます。

スマイルスキャンは素敵な「技術」だと思います - 見ろ!Zがゴミのようだ!


 torin氏のこの見解に全く異論はない。複雑なコマンド指示を必要としないロボットとの対面のコミュニケーションが出来れば、様々な利便性を見いだせるだろうし、アトムのような夢もある。またスマイルスキャン技術と類似の製品では、カメラの笑顔認識機能が挙げられるだろう。私のようなアマチュア写真家だと「笑顔のシャッターチャンスも自分で捕らえてこそ本望」となるが、それを誰に対しても要求する気は毛頭なく、手軽に子供の笑顔を写したいと思っているお母さんなどには、とても便利な機能だと思う。それゆえ笑顔を認識するという技術そのものが否定されるべきとは全く思わないし、精度を高める開発が大いに進んでくれていいと思う。

 但し、技術は運用方法によって負の側面を現わし得ることも然り。在り来たりな例だが、ダイナマイトは土木事業に欠かせない道具であると同時に、人を殺す武器にもなる。スマイルスキャンで人を殺せるとは考えないが、負の作用、あるいは良しと思われてた効果に負の側面が付随している可能性を意識することは、忘れてはいけないのではないだろうか。

◆娯楽製品としての運用
 スマイルスキャンから最初に連想したのが、実はカラオケの歌唱力判定機能だった。最近は消費カロリーを表示するものが多いようだが、私が8年前に渡独した前は(注:昨年2月に帰国してます。一見様のため念のため)、結構当たり前のようにあった。歌唱力判定機能では、あからさまに音程を外したり、小声でぼそぼそ歌っていれば点数が低いのは当然。まずは歌そのものに至っていないのだから(この場合、気持ちよく歌えりゃそれでいいというのは別の話)。しかし歌としてのバランスが取れた中で敢えて一拍ずらしてみたり、声量に強弱をつけてみるのは歌いこなしの範囲であり、それが歌唱力判定機能の基準から逸れて高得点を出せなかったとしても、下手だとは見做せないだろう。レコード大賞の最優秀歌唱賞が歌唱力測定器で決められてたら興醒めもいいところである。しかし恐らく大抵の人はそれを分かった上で、遊びとしてあの機能を面白がっていたはずだ。これは一過性の娯楽に過ぎないわけである。

 それと同様に、スマイルスキャンが遊びの道具として使われたとした場合、私はあまり抵抗を感じない。各々が笑顔を作って、その点数を見てキャッキャウフフするのは一向に構わない。その限りでは一過性の娯楽に過ぎないからだ。しかし歌唱力と違って、笑顔は日常的な個人の個性により密着しているものだから、点数付けが人物評価に結び付く可能性もありえる。場合によってはいじめの原因になりかねないという点で、「負の側面」を意識しておく必要はあるかと思う。

◆盲学校での感情教育としての運用―開発のきっかけ
 さて、私が最も引っかかった論点である。一過性の娯楽と違い、教育という重要な課題をもった実用的運用であるから、その在り方にもより慎重であって然るべきだ。
 オムロンによる1の元記事を見てみよう。

鍼灸師を目指して盲学校で学ぶ生徒にとって、笑顔をはじめとした「表情づくり」はこれまで大きな課題のひとつになっていました。鍼灸師も接客業のひとつであり、お客様とのコミュニケーションにおける“笑顔”が大切ですが、生まれつき全盲の生徒は自分の笑顔を知りません。
(中略)
和歌山盲学校では、スマイルスキャンを生徒たちへの感情教育に役立てるだけでなく、職員の日頃の“笑顔チェック”にも活用して、明るい教育現場づくりに役立てていただく予定です。

分野別地域貢献活動 | オムロン


 単にこれだけ読めば一見いい話である。視覚障害者が鍼灸師として接客に臨むとき、客に安心と好感を持ってもらうために、笑顔が重要だという考えは確かに認める。何故なら、恐らく客の大多数が、目が見える者たちだからだ。客の立場に立ち、客の満足感が何かを知ることが接客業として基本なのは確かだろう。それゆえ、接客業に就く視覚障害者が笑顔を覚えようという意思そのものは私も否定できないし、否定する気はない。だがしかし、これってある意味絶望的なほど悲しい努力だとは思わないだろうか?なぜなら、彼らには自分が作った笑顔が相手にどう映っているか、そして相手がどんな笑顔を返してくれているのか見えないのだから。

 目が見える者同士は、見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識し、そこにコミュニケーション上の意味を見出している。互いが同じ条件にあるからこそ機能しているコミュニケーション手段なのである。マジョリティである目が見える者たちは、日常において何の疑問も持たずに笑顔をコミュニケーション手段として用いているのである。そう、何の疑問も持たずに。しかし視覚障害者には見た目の表情としての笑顔視覚をもって認識することはできない。見える者が何の疑問も持たずに返した笑顔を、彼らは認識することができないのだよ。今このブログ記事を目で読んでくれている方々、私も含め、私たちの笑顔は彼らには見えないのだ。即ち何の疑問も持っていなかった私たちの見た目の表情としての笑顔は、この瞬間コミュニケーション手段として破綻しているのである。それも目が見える私たちの方がお手上げだ、という意味で。それにもかかわらず、視覚障害者の人たちは、私たち目が見える者に合わせて、コミュニケーション手段としては既に片手落ちとなった笑顔を作ってくれるのである。私はこのことに、感謝の気持ちと同時に、どうしようもないほどの申し訳なさを覚えるのである。私はこれまでに、街で手助けされた視覚障害者の人が笑顔で礼を言っている姿を何度も見ている。今まで全く疑問を持っていなかったのだが、恐らく彼らはみな盲学校で笑顔を作る訓練を受けてきたのだろう。マジョリティである目が見える者たちの中で生きていくために。誠に頭が下がる思いでいっぱいだ。

 そこにスマイルスキャンである。歌唱力測定器なら、音程を外しまくれば低得点になるだろう。それは歌として成り立っていないからだ。そしてスマイルスキャンなら、口をへの字に曲げれば低得点になるはずだ。何故ならそれは笑顔として成立していないからだ。でも、口の両端を少し上に上げれば、たとえスマイルスキャンが60点しか出さなかったとしても笑顔である。それでいいではないか。目が見える者たちのために、自分たちでは決して知ることのできない笑顔を作ってくれただけで、既に100点満点なのである。それ以上の高得点を望むことは、マジョリティである見える者たちの傲慢以外何ものでもないんじゃないだろうか。

 そもそも視覚障害者同士は、笑顔を用いずにどうやって自分たちの好意の気持ちを伝え合っているのだろうか?具体的には知らないが、素人発想のレベルなら、「声」がその一つに挙げられるだろう。声なら見える者、見えない者の間でも共通のコミュニケーションツールとして使える。健常者と呼ばれる我々マジョリティは、自分たちにとって便利なように生活空間を作って楽をしている。しかし視覚障害者だけでなく、その他様々な障害を持った人たちが、健常者が胡坐をかいている空間で人一倍の手間や労苦を被っている。マジョリティの中でマイノリティが生きていく以上、いくら理想論を言ったところで、マイノリティがマジョリティに合わせていくのは避けがたい現実だ。しかしそこで、彼らが自立するために自分たちには知覚できない表情まで訓練するのが当然だ、とするのなら、それを最低限頭で理解しているマジョリティは、彼らのために少しでも気配りをするのも当然じゃないだろうか。機械で数値化してまでマジョリティを満足させる笑顔を訓練させることより、たとえハリ治療の客としてでも、彼らと共通にこなせる「声」をコミュニケーション手段のメインとすべき意識は、持つべきなんじゃないだろうか。少なくとも盲学校で笑顔作りが教育必須とされているなら、健常者の学校で様々な障害者に合わせたコミュニケーションを意識すべき教育もされるべきだろう。そのような意識も抜きに、スマイルスキャンを盲学校にとって良い教育機材だということは、自分の環境に胡坐をかいたマジョリティによるマイノリティの抑圧でしかないと私は考え、その意味においてこの製品は「最低の発明だ」と見做すところである。

◆職場の笑顔訓練としての運用
 本来はてブ上ではこちらがメインテーマだったのだが、私にとってはおまけのようなものなので、長くなってしまったし、おまけのように書く。

 接客を主とした業種では、目が見える者同士である以上、笑顔は重要な要素になるだろう。しかし「無愛想な接客ワールドカップ」をやれば、サッカーのナショナルチーム並に毎回決勝リーグに上がれるくらいの強豪ドイツで長年暮らしてた私からすれば、日本のどこでも笑顔の接客はもう十分すぎるくらいで、なんだかなぁって気持ちが殆どだ。ただ笑顔をある程度訓練することが無意味だとは思わない。この場合コミュニケーション手段として成り立っているからだ。恐らく芸能人などはみな少なからず鏡に向かって練習してると思うし、その笑顔をテレビや写真で見て好感をもったりしているのも事実である。

 しかしスマイルスキャンの場合、100段階の点数化というのが個人的には好きになれない。笑顔には個々人によって当然違いがあり、場面によっても笑い方は異なる。つまり0から100という直線的な数列で表すには不都合なんじゃないかと思うのである。取り敢えず笑顔と認識されるのが60点からだとしたら、それ以上は数値化する必要はなく、あとは職場の仲間同士で仕事振りを見合い、自分らしいよい笑顔を磨いていけばいいんじゃないだろうか。仮に私がスマイルスキャンを導入した職場に勤めていたら、良心的兵役拒否じゃないが、思想信条における理由で、謹んで測定を辞退させてもらう。
posted by 芝周志 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感
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