2009年09月23日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 4.欧州最強牝馬決戦

4.欧州最強牝馬決戦
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本節より新規書き下ろし。

ナチ時代の競馬統括組織OBV

1869年に結成れたホッペガルテン競馬場の運営協会ウニオン・クラブ(Union-Klub)は、長年ドイツ全体の統括団体としての機能も兼ねていた。だが分権性の根強いドイツでこの状況は、他地域の競馬協会にとっては不満のタネであり、第一次大戦後間もない1920年、各協会同権の上位組織としての「サラブレッド生産及び競馬のための最高機関」(Oberste Behörde für Vollblutzucht und Rennen・OBV)が設置される。即ちヴァイマール期のOBVは規則や血統管理の上で統括的役割を果たしていたが、組織としては議会民主主義的形態を採っていた。だが1933年にナチ政権誕生後、OBVはプロイセン内務相ゲーリンクが指揮する馬産とスポーツ振興政策の下に組み入れられ、中央集権化される。もっとも、直接の管轄省庁はプロイセン農務省になり、指導部トップにはナチ党員が入り込んだものの、実質運営にはヴァイマール時代からの馬産関係者や農務官僚が残っていた。当時反ナチとして左翼グループは徹底的な弾圧を受けていたが、軍部や教会ら伝統的な保守陣営はナチとの折り合いを付けながらも一線を画し、その強い影響力ゆえに完全なるナチ化を逃れていた。この点、ドイツ史研究の上で殆ど注目されていないものの、大土地所有者や大手資本家層が主要メンバーを占めていた競馬サークルも、ナチイデオロギーの浸透が少ないグループの一つであった。所謂フランスからの馬略奪に関してもOBVの運営部は距離を置き、従来の関係に基づいたフランス馬産界との関係を維持できたのも、このサークルにおけるナチの影響力の弱さを示しているといえるだろう。OBVは1947年に「サラブレッド生産及び競馬のための管理委員会」(Direktorium für Vollblutzucht und Rennen e.V.・DVR)が設立されるまで機能を維持し、サラブレッドに関する様々な戦後処理にも権限を持って対応した。

ヒトラーと競馬

ヒトラー自身が競馬に係わっていたか否かについては興味が持たれるところである。ナチ上級幹部では上記のとおりゲーリンクが直接競馬に影響力を持つ地位にあり、ネレイーデのダービーに臨席していた他にも、幾度となく競馬場を訪れていた写真等の記録が少なからず残されている。また宣伝相ゲッベルスの写真も複数あり、彼らは結構好んで競馬場に来ていた様子だ。またナチではないが、ヴァイマール時代から大統領ヒンデンブルクも頻繁にホッペガルテンに足を運んでおり、副首相パーペン(彼も非ナチの保守政治家)は自らがアマチュア騎手であったため、競馬場常連の顔であった。このように党や国の要人たちが頻繁に姿を見せていることから考えるならば、ヒトラー自身も競馬に関心があれば、或いはプロパガンダのためであれ、ダービーや帝国大賞の際、競馬場に現れていてもよいはずである。というより、競馬のステイタスを考えれば、一度も姿を現さない方が不自然だ。しかし1933年から休刊になる1940年までの「ドイツ競馬アルバム年鑑」を見た限り、彼が競馬場に訪れた形跡はない。1936年度版と39-40年度合併号に一応ヒトラーが写っている写真が掲載されているのだが、前者は目次直後の一面写真でありながら、被写体の彼は何かを視察しているような横顔で写っているだけで、競馬場と特定できる背景がない。実際に訪れていたなら、それと分かるように載せるだろう。また後者は、軍馬生産に関する記事の中で騎馬隊行進式に写っているものや、軍用牧場か厩舎で重種馬にえさを与えているようなシーンで、やはり競馬やサラブレッド生産に直結するものではない。いくら競馬界がナチ政権と一線を画していたとはいえ、総統閣下が競馬場を訪れておきながら写真を載せない、また記事にもしないということはあり得ない。つまりヒトラー自身は競馬への関心は特になく、直接的影響力も揮っていなかったと考えるのが妥当だろう。

クリスティアン・ヴェーバー(Christian Weber)

彼は1883年バイエルンの小村に生まれ、ドイツ語ウィキペディアによると、国民学校(小学校)を出たあと農場の牧童をしていたことで馬に触れるようになる。兵役や第一次大戦への従軍を経た後、ミュンヘンで馬貸しやガソリンスタンド経営、またジーメン著『ハンブルク競馬場150年史』によれば、酒場の従業員や犬の美容サロン、自転車修理工等もやっていたようで、基本的に不安定身分の低所得層に属す人物であったといえる。1920年にヒトラーと出会いナチに入党、彼のボディーガードとして"Du"(お前)で呼び合う関係であったことは本編でも触れたとおりだ。しかしレームのように粛清されることなく終戦まで党内に残っていた割に、政治的側面で彼の名が表立たないのは、手にした地位と権力を専ら趣味の競馬に注いでいたからであろう。ブラウネス・バント創設はヴェーバーの存在なしにはありえなかった。フランスからの略奪に関しては、それが非公式であるが故に、その実態を示す資料の発見が難しい。しかし戦後の文献を読む限り、ヴェーバーの関与は既定となっている。1936年にヴェーバーがミュンヘン市から金を引き出して開設したイザーラント牧場に関し、1942年に早々と書かれた博士論文(獣医学)があるが、それに掲載されている牧場繁殖馬が不自然なほどフランス産馬で固められていることからも(もちろん略奪とは書いていない)、ヴェーバーの関与はある程度傍証できるだろう。恐らくイザーラント牧場やファリスが繁養されていたアルテフェルト牧場のアーカイヴを調べれば色々と実態が分かるのだと思う。だが残念ながら、これまで馬略奪に関し本格的に取り組んだ研究は(恐らく)ない。

尚、ナチに関してはどうしても否定的解釈になってしまう面が否めず、戦後の文献でもヴェーバーは専ら教養のない小悪のイメージになりがちだ。実際彼が私利私欲のために権力を濫用していた面は否定できないであろう。だが彼の人物像から逆に想像できるのは、日本の競馬場でも普通によくいる競馬オヤジのような姿である。偶々早い段階でまだゴロツキ集団のようだったナチ党の仲間になり、指導部に入る力も、ヒトラーを脅かすような器もなく、ただ古参という立場だけで自身の能力以上にはわがままの利く権力を得てしまったがために、羽目を外してしまったオッサン、そんなイメージだ。しかしそんなオヤジのわがままが、ネレイーデとコリーダの勝負をお膳立てしたことは確かであり、ナチ時代の競馬を盛り上げた要因の一つになったことは、(負の側面を無視することなく)評価しておく必要はあるだろう。

posted by 芝周志 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語
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