2009年09月10日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 3.空前の電撃ダービー

3.空前の電撃ダービー
(本節に関するご意見、ご質問等は当エントリーのコメント欄にてお願いします。)

本節は旧ブログ「Nereide(3)」の後半、主にドイツ・ダービーについての書き直しと、ダービー自体の歴史的位置づけについて加筆。その加筆部分との関連から、このはしがきではドイツ競馬の黎明期とウニオン・レネンについて、もう少し歴史的に掘り下げてみたい。

1822年の「ドイツ」

「ドイツ競馬発祥の年」とされる1822年に「ドイツ」と称する国家領域はなかった。確かにナポレオンからの解放戦争後、1815年ウィーン会議によって「ドイツ連邦」という組織体は生まれているが、これは計39の独立主権国家及び自由都市からなる連合体で、現在のEUと同じかそれ以上に緩い紐帯に過ぎない。しかもその領域は旧神聖ローマ帝国の領域に属す部分に限定されていたため、連邦の2大強国オーストリアとプロイセンについては、それぞれ自国の半分、乃至それ以上が連邦に属していない。一方連邦内国家の君主も兼ねるデンマーク、オランダ国王、及びハノーファーと同君連合のイギリス国王が加盟しているなど、ドイツ連邦はおよそ国民国家の基盤として看做せる集合体ではなかった。但し一方で解放戦争を通じ、上級貴族の帝国臣民意識だけでなく、非貴族における「ドイツ国民(ネイション)」としてのナショナル・アイデンティティが明確に生まれ始めたのもこの時期である。即ちドイツ競馬黎明期における「ドイツ」とは、制度上は実質支配力を持たない地名に過ぎないが、枠組みが曖昧ながらも人々の心に帰属意識を与え始めた概念だったといえる。以下の話においても、「ドイツ」という語が暗黙の前提のように使われながら(それは19世紀始の原典著者においても同様である)、その想定範囲や実際の活動領域が様々なレベルで伸縮していることを念頭に置いておいてもらいたい。

ゴットリープ・フォン・ビール(Gottlieb von Biel)と最初の競馬開催

ビールは、1822年バート・ドーベランでの最初のサラブレッド競馬を主催した人物である。1792年生。ドイツにおける競馬はこの人物個人の情熱によって始まったと言っても過言ではない。ビール家は父の代に男爵の称号を得た新興貴族で、後にゴットリープが牧場を開くメクレンブルクの土地も、父の代に得たものでる。彼は1813~14年の解放戦争に従軍し、英国軍との混成部隊に所属。ここで係わった英国馬の優秀さに心酔し、戦後早速サラブレッド牧場を開業することになる。メクレンブルク大公国は、元々馬産地として有名で、メクレンブルク馬はその優秀さが好まれドイツ各地へ輸出されていた。しかし18世紀後半になると、プロイセン、ハノーファー等近隣国の馬産レベルが向上して輸出が頭打ちになり、それと同時に農業技術の進歩で穀物生産量が増大、英国への輸出をメインに国内財政が潤い始めたため、牧場地は減らされ農地化が進められた。またメクレンブルク馬はナポレオン統治時代に多く戦場へ駆り出されたため、更にその数は減少し、解放戦争後には既にかつての活況は失われていた。だが1815年、英国が自国内で向上してきた農業生産力を保護するため、関税引き上げによる輸入制限を施行。そのためメクレンブルク経済は突如窮地に立たされたのである。ビールのサラブレッド牧場開業はまさにこのタイミングであった。もちろんサラブレッド生産がいきなり経済危機を救えたわけではないが、馬産地としての誇りをメクレンブルク国民に再起させる効果は十分にあった。ビール自身がその優秀さを積極的に説いて回ったこともあり、英国サラブレッドは追い風に乗るように導入され、国内に多くの「英国マニア」を生み出した。メクレンブルクが穀物貿易によって、英国との通商関係を既に築いていた意味も大きいだろう。このような帰結として、ドイツ地域で最初の競馬がメクレンブルクで開催されたのは必然であった。またその機運が高まった1822年、大公国皇太子パウル・フリードリヒがプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘アレクサンドリーネと結婚し、バルト海沿いのリゾート地ハイリゲンダムを競馬開催直前に訪問したことも幸運となった。開催地バート・ドーベランはそのハイリゲンダムの隣に位置する。ビールはこの機にPRマネージャーとして多くの賛同者を集め、何よりこの皇太子夫妻を支援者として得たことにより、この競馬開催を最初から権威ある行事へと高めることに成功した。特に皇太子妃アレクサンドリーネが競馬愛好者となったことで、バート・ドーベラン競馬の確立と同時に、プロイセンへの競馬拡大にも一気に拍車をかけたのである。

トラケーネン牧場長ブルクスドルフのサラブレッド批判と論争

このようなサラブレッド生産と競馬の広がりに対し1827年、プロイセン王立トラケーネン牧場長ブルクスドルフ(Wilhelm von Burgsdorf)が批判論文を発表した(因みにトラケーネン牧場はプロイセン東端に位置し、ドイツ連邦の範囲外。現在はロシア領である。)。初の競馬開催から僅か5年後である。如何に急速にサラブレッド人気が高まっていたか、この一件からも窺い知れるだろう。しかも王立トラケーネン牧場の場長とはこの時代、軍事強国プロイセンの補給基地最高責任者と言ってもよい人物だ。当時の馬産とは軍馬の質に係る重要テーマであり、競馬もまた単なる娯楽の枠に収まる話ではなかったのだ。彼の論旨は、遊びとしての競走によって選別されたサラブレッドは、軍馬、馬車馬等の使役に耐える馬作りには適さず、馬の良化に資する価値はない、それゆえサラブレッド生産の拡大はドイツの馬産にとってマイナスである、というものである。これに対し真っ向から反論したのがビールだった。彼は1830年、『貴種馬についての緒言』"Einiges über edle Pferde"と題した358ページに渡る反論書を出版、英国ではサラブレッドが他の使役種の改良にどれだけ効果を現しているかを示し、ブルクスドルフの批判に一つ一つ反駁した。またこれを機に他のサラブレッド生産者も交じって、1830年代を通じ激しい論争が展開されている。その詳細については私自身が原典未読のため紹介できないが、最終的にブルクスドルフ自らトラケナー種の改良にサラブレッド種牡馬を導入したことで、ビール側の勝利として決着がつく。但しビール自身は病を患う中で大著を執筆した影響もあったのか、その決着を見ぬまま、出版翌年の1831年に若くして人生を閉じている。しかし彼の意思は兄ヴィルヘルム(Wilhelm von Biel)によって引き継がれた。英国人の妻を持つヴィルヘルムは、特にタタザールからのサラブレッド購入においてエージェント的役割を演じて多くの馬を大陸に輸入し、ドイツ地域のサラブレッド生産拡大に貢献している。

ウニオン・レネン(Union-Rennen)の創設

上記論争が展開されながらも、サラブレッド競馬の拡大にブレーキがかかっていたわけではない。ブルクスドルフが批判する傍らで、1828年にはベルリンで競馬協会が創設され、その翌年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自ら名誉総裁に就いている。生産地域もドイツ地域内各国に拡大し、特にプロイセン領シュレージエン(現ポーランド領)は19世紀のサラブレッド馬産をリードすることになる。またハプスブルク帝国ハンガリーでも1826年に最初の公式サラブレッド競馬が開催されている(尤も開催地は現スロヴァキア首都ブラチスラヴァ)。ハンガリー内最初のサラブレッド生産牧場も1825年に創設されており、1830年には大陸生産サラブレッドが各地揃い始めていた。そこで創案されたのが、3歳馬限定の能力検定競走、ウニオン・レネンである。この創案者もまたビール(ゴットリープ、ヴィルヘルム兄弟連署)である。レース登録告知書のタイトルは「ハンガリー、オーストリア、プロイセン、メクレンブルク、ホルシュタイン、及び大陸のためのウニオン・レネン」であり、出走資格は「1831年に大陸で生産された馬」となっている。一言で置き換えるなら「英国以外の生産馬」ということになる。ウニオン・レネンは「ドイツ最初のクラシックレース」と呼ばれるべきレースであるが、この告知文全文を通しても「ドイツ」という文字は一つもない。「ネレイーデ物語」本編でも触れているが、ウニオン・レネンが何故「ダービー」と名付けられなかったかというのは、英国に「ダービー」が存在するのに対し、「大陸ダービー」とでも呼ばない限りレース実態に妥当する表現がなかったからであり、何より大陸各国を総称できるウニオン(同盟・連合)こそが相応しいと考えられたからであろう。1834年に最初の歴史を刻んだウニオン・レネンは、19世紀半ばまでドイツ地域各国の優秀な3歳馬が集う重要なレースとなった。しかし本編でも触れた通り、1867年オーストリア・ダービー、1869年北ドイツ・ダービーの創設、1871年プロイセン中心のドイツ統一とオーストリア分離により大ドイツ的基盤が失われ、ウニオンの地位はこの新設2レースとの間で相対化されてしまった。それでも20世紀に入るまでは同等の地位が維持され、北ドイツ・ダービー(1889年よりドイツ・ダービー)が創設4年目にオーストリア・ハンガリー生産馬にも開放してからは、ウニオン→オーストリア→ドイツを短期間で挑戦する米国三冠のような様相を見せていた。だが20世紀に入った頃からドイツ・ダービーの地位がより高まり、また第一次大戦敗北後のハプスブルク帝国崩壊により馬産地ハンガリーを失ったオーストリア・ダービーが一気に衰退したことによって、ウニオン・レネンはドイツ・ダービーのトライアルレースと化していったのである。尤もウニオンの持つ伝統は決して否定されるものではなく、実態はダービー・トライアルとなっても、勝者に対するリスペクトは現在も失われていないということは付け加えておきたい。

posted by 芝周志 at 04:35| Comment(1) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語
この記事へのコメント
業務連絡です。

PCが突如故障し、しばらく更新できそうもありません。データは生きているのでよいのですが、昨日オーダーした新規PCの到着が早くて10月半ば予定なので、記事再開はそれ以降になりそうです(故障PCがたまに起動するので、その際にアップするかもしれませんが)。

そんなわけですので、しばらくご容赦ください。
Posted by 芝周志 at 2009年09月20日 02:03
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