2009年09月04日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 2. 苦戦の連勝街道

2. 苦戦の連勝街道
(本節に関するご意見、ご質問等は当エントリーのコメント欄にてお願いします。)

本節は旧ブログ「Nereide(3)」の前半、ドイツ・ダービー前までの書き直し。本節に関する補足は特別ないので、登場する騎手たちについて少し紹介しよう。

エルンスト・フローリアン・グラプシュ(Ernst Florian Grabsch)

ネレイーデの全レースで手綱を握った主戦騎手。1929年にグラーフイゾラーニでダービー初制覇し、オッペンハイマー時代よりエーレンホフとは縁が深い。だがグラディッツ牧場のアルヒミスト(Alchimist・1933年)、アーベントフリーデン(Abendfrieden・1937年)でも勝っており、シュレンダーハーン主戦の時期もあるため、常にエーレンホフ専属だったわけではない。1905年生まれで、若くから頭角を現し、1929〜1931年に3年連続でリーディングジョッキーに輝いている。直感的な手綱捌きで、天才肌の騎手であったとされる。彼は騎乗スタイルの大胆さで華があっただけでなく、プライベートにおいても派手な生活で有名であった。ベルリンの屋敷では執事を従え、贅沢なパーティをよく催していたようだ。しかしその贅沢な生活を支えるために、常に多額の借金を抱えていたとも伝えられる。また彼はナチが政権を取った1933年に党員となり、親衛隊にも所属していた。同年のダービーをアルヒミストで制した時は、レース後に親衛隊の制服を勝負服の上に羽織り、党員に肩車されて観客の前に現れ、ゲッベルス宣伝相の祝福を受けるなど、ナチの宣伝的演出にも一役買っている。もっとも、この後もシュレンダーハーンの馬に乗るなど、特に反ユダヤ主義的な政治性はないようで、単に時流に乗った派手好きな人間であったようだ。しかし戦後は人々から見放されたらしく、再び手綱を握ることがないまま、1963年に首を吊って自ら命を絶った。

ユリウス・ラステンベルガー(Julius Rastenberger)

ネレイーデのライバルとしては、主にヴァーンフリートに騎乗していた騎手。キサッソニー・レネンでウンフェアザークトの2着でも手綱を握っており、このネレイーデのストーリーに出てくる限りでは、後方からの追い込みが得意な豪腕騎手のイメージが強い。しかし彼について語られた記事をいくつか読むと、むしろペースメイキングが上手くて柔軟性のある、柔らかい騎乗スタイルの騎手だったようだ。ファンも多く、「このレースはユーレ "Jule"(彼のニックネーム)でしか勝てなかった。」とよく言われたほどで、実際に外国人騎手が主流だったそれまでのドイツ競馬界で、1915年に初めてドイツ人としてリーディングを獲得している(アメリカ人騎手アーチバルド "Archibald" と同勝ち星で分け合う)。しかし1924年、勝利を怠った騎乗をしたことで、騎手免許を剥奪され、一旦事実上の引退に追い込まれる。経済的にも苦境に陥ったラステンベルガーは、なんと「猿回し」ならぬ「熊回し」師をやったり、スポーツバーを開いたりして糊口をしのいだ。1929年に漸く免許剥奪が取り消され、短期で再びトップジョッキーの地位に返り咲く。1887年生まれの彼は、50歳を過ぎても第一線で活躍していたが、1943年7月3日、ホッペガルテンのレースで1149勝目を楽に手に入れるかに見えたその時、馬上の彼の動きが止まり、追い込んだ馬に交わされ2着で入線すると、ばさりと地面に落ちた。突然の心不全により、ラステンベルガーは「馬上で死んだ騎手」として56歳の生涯を閉じたのである。

オットー・シュミット(Otto Schmidt)

戦前、戦後を通じ、2218勝という当時としては破格の成績を残した伝説的ジョッキーで、ネレイーデさえいなければ世代トップの牝馬になれたアレクサンドラの主戦騎手。ヴァルトフリート牧場の見習い騎手としてデビュー(記録上は1912年と書かれているが、それは牧場に見習いとして雇われた年で、修業の後実際にデビューしたのは1915年)し、翌1916年のダービーを人気薄の牧場2番手馬アモリーノ(Amorino)で勝利し、一躍脚光を浴びる。そこから一気に才能を開花させ、1919年には早くもリーディングジョッキーとなり、1924年にドイツ人騎手として初の年間100勝以上(143勝)、1927年に同じくドイツ人として初の通算1000勝を達成した。1952年に引退するまでにダービーを7勝、リーディングに14回輝いている。彼が本馬場に現れると観客が「オットー!オットー!」と叫ぶのは、当時の競馬場のお決まりの景色であった。逃げが得意で、自らペースを作って勝利するパターンが多かったそうだ。私生活も上記二人のようなスキャンダルとは無縁で、むしろ生真面目過ぎるほどであったらしく、多くの騎手がレース後酒場に集まっていたのに対し、彼はさっさと帰宅して、朝調教の騎乗も決して欠かさなかったという。騎手引退後一旦調教師になるが、間もなく病を患いリタイア。1964年、68歳で他界した。

posted by 芝周志 at 03:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語
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