2009年08月24日

「ネレイーデ物語」はしがき 〜 プロローグ エーレンホフ牧場の光と影

プロローグ エーレンホフ牧場の光と影
(本節に関するご意見、ご質問等は当エントリーのコメント欄にてお願いします。)

本節は旧ブログ「Nereide(1)」の書き直し。

1924年バーデンショック

これを話の枕としたのは別に私のオリジナルではなく、1936年度「ドイツ競馬アルバム年鑑」(Album des deutschen Rennsports)のネレイーデ特集を踏襲したものだ。もちろんこれがエーレンホフ牧場発展の重要な布石となり、導入部として最も妥当だと判断したからでもある。またシュテルンフェルトの『パティエンスからネレイーデまで』でも、この事件とその後の影響は重要性をもって書かれている。両記事にははっきり親和性があり、前者は署名記事ではないのだが、もしかしたらシュテルンフェルトが書いたのではないかと考えている。「ドイツ競馬アルバム年鑑」の長文特集記事は1920年代から1931年度版まで執筆者名が記載されており、シュテルンフェルトとペンネーム「マルドゥク」(Marduck)という記者の二人でほぼ書かれていた。主にシュテルンフェルトが牧場記事、マルドゥクがその年を代表する馬について書いていたので、1936年度版でもそれが踏襲されていればネレイーデの記事の筆者は後者となるのだろう。しかし仮にそうだとしても、共に「ドイツ競馬アルバム年鑑」を作ってきた者として共通認識は出来上がっていただろう。バーデンショックがドイツ馬産界に与えた影響という観点がネレイーデ誕生に不可欠な要素と見ているところに、シュテルンフェルトが『パティエンスからネレイーデまで』を執筆した動機の背景が隠れているとも考えている。

グスタフ・ラウ

シュテルンフェルトと共にエーレンホフ牧場の顧問であったラウについては、実はそれほど詳しく調べていないのだが、ドイツのウィキペディアによれば、一時期はSport-Weltの編集者の一人であったようだ。しかし彼の名声はサラブレッドよりむしろ温血種の専門家としてあったようで、ドイツ軍騎兵部隊の軍馬生産補給の指揮に当たったり、1936年ベルリン・オリンピックの馬術競技運営組織にも携わっている。戦後も乗馬スポーツの振興に係わっており、シュテルンフェルトに比べ、各体制の中で、飽くまで必要とされる場においてのみ影響力と名声を持つ専門家としての地位を維持していた人物であったのだろう。ネレイーデの活躍時はオリンピックに従事している頃であり、恐らくエーレンホフ牧場や競馬関係とは接点がなかったと推測される。

オッペンハイマーの最期について

基本的に何も分からないというのがあるのだろうが、戦後の「ドイツ競馬アルバム年鑑」や季刊誌「Vollblut」のエーレンホフ牧場に関する記事でも、詳しい話は敢えて避けるかのように載っていない。本稿の記述において参考にしたのはハラルド・ジーメン著『ハンブルク競馬協会150年史』で、この本は2001年までの全ダービーについて書かれており、オッペンハイマーに関しては1929年グラーフイゾラーニの章でその人物像が語られている(牧場で馬に角砂糖を振舞っていた逸話もここより引用)。この本で「彼(オッペンハイマー)の運命は分からないままである。」と記されているため、本稿でもそれを採用したのだが、実は先月(2009年7月)に出版されたシュレンダーハーン牧場史では彼の最期についても書かれていた。オッペンハイマーはユダヤ人迫害が更に本格化した1942年、睡眠薬で自殺したということである。この本では基本的に文献参照箇所が註に記されているのだが、この件についてはそれがなく、本文中ではオッペンハイム家がその報を伝え聞いたと書かれているため、恐らく情報源はカリン・フォン・ウルマン女史へのインタビューと思われる。ただその真偽については確かめる術もないため、本稿ではジーメンの記述に従い「不明」とし、罪人として拘置下にあったことから、ナチによる抹殺の可能性も残しておくことにする。

ハインリヒ・テュッセン・ボルネミシャ

旧ブログで、「軍需産業を支える鉄鋼企業は戦後ナチ時代の責任を深く問われる立場にあったが、反面その巨大な影響力ゆえにナチ党も容易に干渉することができず、彼らの暗黙の後ろ盾で反ナチ抵抗の地下活動を行っていた者もいたくらいだ。」と書いた。これは全く根拠なく書いたものではなく、具体的には戦後西ドイツ第3代連邦大統領グスタフ・W・ハイネマンなどは、ライン製鉄所の法律顧問をやっている傍ら、告白教会の反ナチ的立場を通し、地下新聞などを発行しながらも、終戦まで拘束されることなく自身の地位を維持している。もちろんハイネマン自身がうまくやっていた側面はあるが、しかし状況証拠的には十分に目を付けられる人物であったにも拘らず、ナチが最後まで手出ししなかったのは、鉄鋼業界に深く繋がった彼のバックボーンにあったといえる。ただテュッセンに関しては、以前は知識不足で、彼がゲーリンクらナチ幹部と競馬場で親しく接している写真が多く残されていることから少し調べてみたら、かなり親ナチ的人物だということが分かった。それゆえ旧ブログでの記述は、本稿では削除した。

アードリアン・フォン・ボルケ調教師

彼についても旧ブログ執筆の際は知識不足で、てっきり元々エーレンホフの専属調教師をやっていた立場からテュッセンに牧場の救済を頼んだと解釈していたのだが、実はこれを機にこのポジションに就いている。それゆえ旧ブログの記述は誤り。尚、旧ブログでボルケがネレイーデの見栄えのしない体躯を見て「まるで骨組みのようだ」と言っていたと書いているが、これはジーメンの本から引用したもので、ドイツ語では"eher ein Gerüst"とある。建築現場の足場の骨組みみたいな意味になるのだが、4年前も結構悩んで結局馬体を指して言うには上手い訳語が出てこないので、今回はこの表現自体削除した次第。

posted by 芝周志 at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ネレイーデ物語
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