2009年05月26日

ブエナビスタの祖−シュヴァルツゴルトとシュレンダーハーンのSライン

桜花賞に続きオークスも制して、牝馬二冠達成。ブエナビスタの強さはまさに桁違いで、レッドディザイアが気の毒で仕方ない。普通の年ならレッドディザイアも余裕で二冠だろう。しかもブエナビスタの勝ち方は無茶苦茶である。四位の騎乗は無駄なくベストを尽くしており、一方アンカツはベテランゆえに肝が据わっているということだけに意義があり、しかも今回は自ら認めている通り直線で迷ってもたついたくらいなのだから、あの状況から差し切るなんてもう出鱈目である。とにかく私たちは今、とんでもない馬を見ているのだということは間違いない。

そんなとんでもない馬の母馬の名はビワハイジ。2歳最優秀牝馬であり、その後も重賞戦線で活躍した馬で、今ここで説明し直す必要は全くないのだが、競馬場からの家路で今更ながら「そういやビワハイジってSラインだったな。」と思い出したので、ブエナビスタの牝系の祖、69年前のドイツのとんでもない牝馬シュヴァルツゴルト(Schwarzgold)とその子孫Sラインについてちょっと調べ直してみた。

「ブエナビスタの牝系の祖」とはいっても、もちろんシュヴァルツゴルト自身がこのラインの発端ではなく、ドイツのSラインという通称に従うなら、更に2代遡ったシュヴァルツェクッテ(Schwarze Kutte)がその始祖となる。シュヴァルツェクッテは1920年英国産で父は英セントレジャー馬ブラックジェスター(Black Jester)。1歳のときに現存するドイツ最古の私営牧場シュレンダーハーン牧場(ハルツブルク牧場とかグラディッツ牧場はもっと古いが元は王立等)に買われドイツの地にやってくる。2~3歳時に6勝を挙げ、競走馬としてそこそこ満足できる成績を残している。しかしこの馬は母馬としてこそ真価を発揮し、特に1932年産駒、戦前ドイツ最強とされるオレアンダー(Oleander)を父とするシュトルムフォーゲル(Strumvogel)は、ヘンケル・レネン(独2000ギニー)、ウニオン・レネン、独ダービーを連覇、続くベルリン大賞でパリ大賞馬アドミラルドレイク(Admiral Drake)を倒して、父に続きドイツ馬がフランス馬に比肩できるレベルであることを証明した。またシュトルムフォーゲルの1歳姉シュヴァルツリーゼル(Schwarzliesel)も優秀で、キッサソニー・レネン(独1000ギニー)を制し、ディアナ賞(独オークス)3着の成績を残す。即ちシュレンダーハーン牧場のSラインは、その最初から大成功していたのである。

1937年、シュヴァルツリーゼル初仔としてシュヴァルツゴルトは誕生した(父アルヒミスト(Alchimist)もこの時代に名を残す名馬であるが、この馬については随分昔に前ブログで書いたのでそちらをご参照いただければ)。2~3歳にかけ11戦8勝。意外にも3回も負けているのだが、1つはデビュー戦での首差2着。その次から4戦連続逃げ切りの圧勝劇を演じるが、2歳最終戦のラティボア・レネンでヴァルトフリート牧場のフィニートア(Finitor)に半馬身差され、彼女の敗戦の中で唯一説明(または言い訳)が見つからないレースとなった。最後の敗戦は3歳明け初戦のヘンケル・レネン。調教師ゲオルク・アルヌール(Georg Arnull)曰く、シュヴァルツゴルトは最も調教し易く、最も調教が難しい馬だった。調教では基本的に単騎で、ダートでは抑えが利くのだが、芝調教では自分の意思でテンポを作ってしまい、なかなか調整ができなかったということである。ヘンケル前も芝での仕上げ調教ができなかったということで、どんな名馬でも仕上がり途上で明け初戦を勝つのは難しいという競馬の常識を、この馬自身が裏付けたのだと一応解釈されているようだ。

だが一叩きされたシュヴァルツゴルトは、誰もが驚き、あるいは最早呆れて笑うしかないほどの強さで快進撃を開始した。まずはヘンケルで後塵を拝したネーヴァ(Newa)をキッサソニー・レネンで6馬身差に叩き落し、続くディアナ賞は着差を測ることすら許さない大差で圧勝。そして迎えたダービー。牡馬前哨戦であるウニオンもシュレンダーハーンのアドアストラ(Ad Astra)が制しており、上がり馬サムライ(Samurai)と合わせた3頭出しで、どう転んでも優勝カップはオーナー、オッペンハイム(Waldemar von Oppenheim)の手に渡ることになっていた。そして予想違いはアドアストラが4着になったことくらいで、サムライは3着エッレリヒ(Ellerich)に5馬身差の2着を確保する。而してシュヴァルツゴルトは、13頭立ての外11頭目からスタートし、抑え気味ながらも内へと切り込みながら先頭に立つ。鞍上シュトライト(G.Streit)は持ったままであったにも拘らず、スタンド前を通過し1コーナーに差し掛かったときには後続との差が開き始め、向正面で6馬身、10馬身、そして15馬身と差が見る見る開き、最終コーナーでは既に誰もがシュヴァルツゴルトの勝利を確信して祝福の歓声をあげた。シュトライトは早々と手綱を降ろし、このとんでもない牝馬の背にただ揺られるがままに揺られ、悠々とゴール。その瞬間2着のサムライは10馬身後ろで、3着以下相手に圧勝劇を演じていたのである。サムライはこの後セントレジャーに勝ち、古馬になっても重賞をいくつも勝っており、他の年だったら十分世代トップになれた馬だ。そこからもシュヴァルツゴルトのとんでもない強さが分かる。

ダービー後、シュヴァルツゴルトはオレアンダー・レネンを再び「大差」で圧勝し、次の目標をミュンヘンの国際レース、ブラウネス・バントに定める。1934年、ミュンヘンの競馬狂ナチ官僚クリスティアン・ヴェーバー(Christian Weber)によって創設された高額レースだ。しかしヴェーバーは何故かシュヴァルツゴルトの出走を認めなかった。それでも陣営がシュヴァルツゴルトと共に果敢にミュンヘンへ乗り込むと、遂にナチ親衛隊が現れ、シュヴァルツゴルトの馬房の前を封鎖したのである。これで万事休す。オッペンハイムはアルヌール師、牧場長シュポネック(Graf Sponeck)に「暴力の前には屈せざるをえない。」と述べ、出走を断念したのである。親衛隊は、勝者がゴールを駆け抜けたと同時に、シュヴァルツゴルトを馬房から解放したという。この逸話についてはH.ジーメン(Harald Siemen)とH.ルドルフィ(Harald Rudolfi)の著書(下記参考文献ご参照)で触れられているのだが、ヴェーバーが出走を妨害した理由は書かれていない。この時レースを勝ったのは伊ダービー馬で、後にリボー(Ribot)の祖父となるベリーニ(Bellini)である。1940年夏は既に第二次大戦に突入しており、英仏とのレース交流は断たれている。恐らく国際競走として同盟国イタリアの顔を立てるために、シュヴァルツゴルトの出走を阻んだのであろう。あるいはオッペンハイム家がユダヤ系(19世紀に既にカトリックプロテスタントへ改宗している)であることも関係しているかもしれない。この3年後、シュレンダーハーン牧場はナチ親衛隊によって接収され、オッペンハイム家は亡命している最終的に屋根裏で身を隠す生活となる。

この鬱憤を晴らすべく、ホッペガルテンの高額重賞、帝都大賞(現ドイツ賞)に臨む。そしてこれが現役最後のレースとなる。このレースの模様については、私が文章で語るより、以下のYouTubeを見ていただきたい。貴重な映像でビデオにもなっており(最近DVDにもなったようだ)私も持っているのだが、誰かがちゃっかりアップしてくれたようだ。

観客が傘を広げる雨天の中、見ての通りの圧勝劇である。ドイツではレース毎に「レース判定」(Richterspruch)というのをするのだが(「ドイツ競馬用語」の"Richterspruch"ご参照)、正規のカテゴリーにない「控える」(Verhalten)という判定が出された。直線では最早レースを終え、すっかり控えてしまったからだ。

既述のようにこの時ドイツ競馬は英仏とのレース交流を断たれていた。それゆえ凱旋門賞への挑戦は最早叶わず、「パリでも負けはしなかっただろう。」というアルヌール師の無念を残しながらも、シュヴァルツゴルトはとてつもない足跡をドイツ競馬史に記してターフを去った。

繁殖に入ったシュヴァルツゴルトはしかし、9年の牧場生活で僅か2頭の牝馬を残し、1951年感染病によって早世した。2頭のうち姉のシュヴァルツェパーレ(Schwarze Parle)は牧場から放出されたが、大物こそいないものの、やはりシュヴァルツゴルトの血が重宝がられたのか、地道に広く牝系を残しているようだ。そして妹のシュヴァルツブラウロート(Schwarzblaurot)が現代にまで太く残るシュレンダーハーンのSラインを構築する。シュヴァルツブラウロート自身は現役時代これといった成績を残しておらず、直仔もオープンクラスで活躍する馬は多く出したが、トップレベルというほどではなかった。しかし牝系の直仔たちが素晴らしい母馬となったのである。

1955年産サブリーナ(Sabrina)は、自身も独1000ギニーを2着したまずまず優秀な馬で、産駒には(見落としがあるかもしれないが)ずば抜けた馬はいないものの、血脈としては現在に至るまでオープン級の馬を輩出し、最近ではゾンマーターク(Sommertag)が昨年のバーデン・ヴュルテンベルク・トロフィー(Gr.III)を制しており、シュレンダーハーン牧場に残るSラインの重要な1本に数えられている。

1952年産シェヘーレツァーデ(Scheherezade)も、1941年以来祖母の名を冠した独1000ギニー、シュヴァルツゴルト・レネンを3着している。こちらの血統は更に優秀で、特にシェーンブルン(Schönbrunn)は1000ギニー、ディアナ賞の牝馬二冠を達成し、フランスへも度々遠征してドーヴィル大賞を勝っている。そしてその2代後には、1984年の凱旋門賞を勝ったサガス(Sagace)に至るのである。また先日サンタラリ賞(仏Gr.I)を6馬身差で圧勝したStecelitaもこのラインに属し、衰える気配はない。

そしてブエナビスタの直系の祖となり、マンハッタンカフェなどを通じても日本と縁の深いのが、1954年産ズライカ(Suleika)である。ブエナビスタ、マンハッタンカフェに通じる直仔サンタルチアーナ(Santa Luciana)は、見落としてない限り目立った産駒はなく、日本に辿り着いて開花した感がある。だがズライカの直仔で最も目に止まるのは、ディアナ賞馬ザベーラ(Sabera)であり、この馬から1976年独ダービー馬スタイヴァザント(Stuyvesant)が産まれる。スタイヴァザントは活躍する産駒こそ出せなかったものの、日本でも種牡馬生活を送った数少ないドイツ馬だ(っていうか、他にいたっけ?)。そして名前が日本のサヨナラ(Sayonara)から、1985年英国ダービー馬スリップアンカー(Slip Anchor)が誕生するのである。

ドイツ馬産はよく閉鎖的と言われるが、牧場が独自の血統を守りながら、決して飽和しないように外部の血を程度に交配させ、世界へと染み渡るように広げていく手法は、長期的視野に立った経営としては当然のスタンスなのではないだろうか。確かに大種牡馬を抱えた華やかな影響力に比べ明らかに地味ではあるが、こうしてSライン一つを眺望してみても、閉鎖的と呼ぶには明らかに異なる広がりと奥深さがある。ドイツはシュヴァルツゴルトというとんでもない馬を生み出し、戦中、戦後の混乱の中にあってもその血を絶やさず守り続け、こうして日本の競馬シーンにまでもしっかり影響を与えているのだ。今私たちが目の当たりにしているとんでもない馬ブエナビスタは、69年前のとんでもない馬シュヴァルツゴルトの血を熟すように受け継いだ結果現れたのだと思うのも、決して間違いではないだろう。

【参考文献】

  • Deutsche Flach- und Hürdernis- Renn-Chronik, Jahres-Ausgabe 1939
  • "Schlenderhan, Eine züchterische Bestandsaufnahme am Ende des Jubiläumsjahres" in: Album des Deutschen Rennsports 1969
  • Beckmann, Martin: "Stuyvesant, Der dritte Derby-Sieger der Familie der Schwarze Kutte - der 16. für Schlenderhan" in: Vollblut Zucht und Rennen, Nr.68 (1976)
  • Hagemann, Eberhard: Aufbau und Leistung der Schlenderhaner Vollblutzucht (1939)
  • Rudolfi, Harald: Von Abendfrieden zu Baarim (1963)
  • Eversfield, Martin E.: Die Klassischen Sieger 1946-1975, Vollblutzucht und Rennen in drei Jahrzehnten (1975)
  • Siemen, Harald: Faszination Galopp, 150 Jahre Hamburger Renn-Club e.V. 1852-2002 (2002)

posted by 芝周志 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ競馬
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